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- 安っぽい自己啓発が共感を呼ぶ本当の理由
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- 無意識に自分の価値を過小評価する人
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- 他人の弱さを不快に感じる人の弱さ
- 社会に出る前に捨てておくべき3つの財産
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- 成功本が役に立たない理由
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- お金持ちになるための基礎体力・自分流まとめ
- 悪いのは忘れる上司なのか
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成果を出せない人なんてひとりもいない
レトリックに説得力を付与するテクニックというのがある。
ただの喩え話も「理系っぽい」と何故か有り難く思えるから不思議だ。理系マジックとでもいおうか。これに文系っぽく挑戦してみよう。数式やそれに類するものは前提を忘れさせてくれる。先のエントリーでいえば、そもそも「成果」って何よ、という前提がない。だから何とでもいえる。実際、コメント欄にあるいくつかの提案が、小飼弾氏のそれと前提を共有していない可能性は高い。他人の評価を気にするかどうかでもその意味はまったく違ってくる。たとえば、凄いのに売れない発明を成果と呼ぶかどうかは解釈次第だろう。何を運と呼び、何を実力と呼ぶのかも同様だ。
想像するに、一般にイメージされる「できる」人々だけが、一般にイメージされる「成果」をあげるわけではないと思う。たとえば、勝間和代の本を「できる」人の「成果」だと思っている人がいるとして、その人が『恋空』の作者を「できる」人だと思うかどうかは甚だ疑問だ。成果の中に「たくさん売れるもの」を含めるなら『恋空』は立派な成果である。当然、この本の作者にどんな「実力」を認めるかは評価する人間次第ということになる。女子中高生の心を掴む実力があったといういい方をする人もいれば、時代の波に乗っただけで実力なんてないという人もいるだろう。
或いは、成果と世間の評価は無関係だという認識の人もいるだろう。丹精込めて育てた美味くて売れる野菜はもちろん立派な成果だ。同様に、丹精込めて育てた不味くて食えない野菜だって成果だという考え方である。評価というものはそもそも正しく計測できるものではない。自分が思いもよらないところで評価されていることもあるだろうし、今評価されていないからといって未来永劫評価されないとも限らない。実力や運に恵まれて現在価値を得たものだけが成果だというなら、ゴッホはなんら成果を残せず死んだことになる。まあ、そういう考え方もあるだろうけれど。
つまりすべての事物の価値は測定不能である。測定できるのは、精々見える世間における現在価値くらいのものである。それだけが本質だと考えるのは勿体無い。なのに、成果をあげるというとき、大抵は世間に認められるとかお金が儲かるとかいう意味になりがちだ。そういう価値観で生きるのも楽しいだろうけれど、もし苦しくなったときは別の価値観に生きるのも悪くはないと思う。たとえば、成果という言葉を「幸せに繋がるもの」と定義し直すだけでいい。特に条件をつけない限り、すべての行動は何らかの成果を生んでいると考えるのも、強ち無理な話ではないのだから。
世界は成果の集積でできている。そして、すべての人がそれに貢献している。
posted in 08.06.02 Mon
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