匿名ダイアリーの自分語り=物語化という病

最近、こうした自分語りをはてな匿名ダイアリーで頻繁に見かける。

他人に興味を持つにはどうしたらいい?

過去の裏切り体験で他人への厚い壁を作ってしまった。よくある話すぎて失笑しそうになる。昨日取り上げた「勝ち組になれなかったこと」もそうだけれども、この手の自分語りは総じてこれ以上ないくらい陳腐だ。書き手の個別的な体験がまったく欠けている。誰かと別れるのも、誰かに裏切られるのも、誰かを裏切るもの、本来は極めて個人的な体験のはずだ。ところが、こうした文章において、そうした個別性は一切排除されている。自分の体験を陳腐な物語に昇華し、客観化してしまっている。そこにあるのは、自虐的なナルシシズムと真情の籠もらないポエトリーだけだ。

もちろん、当人に表現力がないという問題はあろう。はっきりいえば、この種の文章のほとんどは丸きり紋切り型でつまらない。ただ、自分の物語をここまで陳腐化してしまうというのは、ちょっと表現力だけの問題とも思えないのである。これは当人のリアリティを反映した結果なのかもしれない。そんな疑念が残る。リアリティというのは認識の問題である。一方、リアルというのは概念であって十全に認識することはできない。個人のリアリティには思考の癖が出る。ここまで陳腐な物語としてしか自分の来し方を認識できないのだとしたら、人生に彩りがないのは当然だろう。

何かの本質を探ったり端的に把握するために、枝葉を排して考えをまとめるのはいい。思考実験として面白いだろうし、自分の人生の参考になることもあるだろう。また、何かよく解らないものを別の何かに比定したり、瑣末な問題を上位概念に止揚するのも、思考のためのテクニックとして有効だ。問題にぶち当たったときや、冷静に自分の人生を見つめる必要があるときにこそ利用すればいい。きっと役に立つ。けれども、個として生きるということは、個の現実を生きるということである。自分の全人生を紋切り型の思考でフィルタリングして認識するなどあまりにつまらない。

個別的体験というのは、些細な差異の集積である。翻って、些細な差異を切り落としてしまえば、あらゆる人生は陳腐である。究極的には、食って、寝て、死ぬだけだ。これなら、地球上の大抵の人間にあてはまる。もう、陳腐とかいう次元ではない。つまり、オリジナリティの多寡は、どこまで差異を認識するかで決まる。情報社会は、他人の物語を大量に流通させる。どこかに似たような物語があるのは当たり前だ。ただし、それらは枝葉を排して整形された上っ面の物語にすぎない。それを自分のリアリティとして採用するなど、あえて人生の貧困を選択する愚行でしかない。

貧相な自分語りをする前に、もっと豊かな認識力を身につけて欲しいと思う。

related entry - 関連エントリー

comment - コメント

ケータイ小説と似ているなあ、と思いました。個別性・固有性を剥ぎ取って類型的かつ陳腐なストーリィばかりになっているあたり。
あとまあ、匿名ダイアリーなだけに、個別性は敢えて表現しないという規範が存在するのかもしれません。そこを表現すると匿名ではなくなってしまうから。

> Yuu Arimuraさん
実はケータイ小説を読んだことがないのでそちら方面のことはよくわかりませんが、ストーリーの陳腐化が共感を容易にするという側面はあるんでしょうね。それはあまりに類型的ないわゆる「泣ける」話がウケるところを見ても明らかなようにと思います。エンターテイメントとしては、だからアリなんだろうとは思うんですよ。個人的な好悪は別として。
ただ、これを自分の現実にまで敷衍して陳腐化するのは、かえって自分の人生を貧しくするんじゃないかなぁというのが、今回の思い付きだったんですね。みんなもっと個別的な生を生きてるはずでしょ?、と。
仰るように、匿名ダイアリーという場の特性はあるかもしれません。とはいえ、現実的な細部を書き込めば匿名性を損傷しますが、真情を吐露するためのフィクション化された個別性の表現というのはいくらでもできると思うんですけどね…。

この情報化社会では、個別的な独自の生、と思ってても、結局一つのよくあるパターンに
過ぎなかった、という絶望を皆経験してるんですよ。
生の個別性に、幻想を持ちすぎじゃないのかなあ?
個別性を強調しすぎると、むしろフィクションになっちゃうんですよ、現実という奴は。
あなたの考えの根底にある、個別性=面白い、というのも一つの嗜好に過ぎないなあ。
私の嗜好は、個別性と感じてたもの=実は陳腐=それが万物斉同で面白い だけどなあ。あなたの考えを含めて。

> 反論さん
よくあるパターンというのは、そういう認識の結果ですね。それは既に枝葉を捨象された現実認識だとぼくは考えています。あのときの台詞の語尾が「好きだ」だったか「好きだよ」だったか?その声の高さは?調子は?相手の反応は?表情は?…陳腐な恋愛のワンシーンも多様な細部に支えられていると思います。構成する要素すべてが同じということはあり得ないでしょう。ここで意味を見出せない要素を切り落とすのがパターン化や物語化という作業です。どんな要素まで意味を見出すかで切り落とされる要素のレベルは変わってきます。どんどん切り落とす作業が面白いという人はたくさんいるでしょう。ぼくも全然別個に見えるものに共通項を見出し類型化するのは大好きです。物の観察方法には限りなく細部を追究し差別化する方向と、万物を素粒子にまで分解し単純化する方向とがあり、どちらもとても興味深いものだと思います。ぼくの考えみたいなものにオリジナリティはない。そのことには自覚的です。ぼくが考える程度のことはたくさんの人が考えている。けれども、このブログでこうした文章でこのことを書き、あなたのコメントにこんな風にコメントを返すぼくというのは個別的な存在だとぼくは認識しています。それがぼくのいう細部ということなんです。まあ、そうした認識に価値を見出すかどうかはまた各自の問題ということになるわけですが。

コメントを投稿

エントリー検索