効率化を考えるのは最後の最後でいい

効率的というのは、本当はとてもつまらないことだと思う。

効率病にかかっていませんか? - 遥か彼方の彼方から

効率的というのは主に時間や労力を最小限にすることだろう。ならば、最高に効率的な人生とはこうだ。最小限の労力と時間で死ぬこと。生きるための消費エネルギーを最小限に抑え、極力心も身体も動かさず、死ぬ努力も生きる努力もせず、食い物があれば食い、飲物があれば飲み、排泄し、寝、食い物がなくなれば飢えて死に、飲物がなくなれば涸れて死に、運が悪ければ老いて死ぬ。美味いものを食うとか、お金持ちになるとか、他人と仲良くするとか、命永らえるための努力をするとか、まったくもって非効率な人生だ。人生を愉しむくらい非効率なことはない。

逆にいえば、人生の愉しみはおよそ非効率の中にある。音楽を聴く。映画を観る。人と話す。どれも人生の効率化とは対極にある。効率化が楽しいと思えるのだとしたら、それは「効率化を愉しむ」という非効率を愉しんでいるからだ。たとえば「効率的にブログを更新する方法」を考える。ブログの更新自体が人生の無駄だというのに、その方法を効率化したからといって何だというのか。本当に効率的に生きたいならブログ自体を止めるべきだろう。少なくとも、効率的に生きようとする人のやることじゃない。そんなものは、愉しんで生きようとする人がやることだ。

旅行に行く。これを効率的にやろうとする人がいる。効率的な旅行というのはそもそも本意を見失っている。目的地にいかに効率的に辿り着き、いかに効率的に帰ってくるか。ドラえもんがいたらこうなる。どこでもドアで凱旋門前に行き、記念写真を撮り、どこでもドアで帰ってくる。とても効率的である。そして、とてもつまらない。家に帰り着くまでが遠足、というのは真理をついている。それどころか、観光場所を投票で決め、班行動の予定を組み、500円分のお菓子を買い、ワクワクしながら荷造りをする…これもみんな遠足である。愉しむとはそういうことだろう。

じゃあ、効率化はしない方がいいのか。そんなことはない。人生は短い。平均まで生きても80年そこそこである。人生に起こる大抵のことは愉しめる。そんな才能に恵まれた人はいい。けれども、そうでない人はどうしたって愉しくないこともしなくちゃならない。そのときに初めて効率を考えればいい。順序を間違ってはいけない。目の前に課題が降ってくる。まずは、それが自分にとって愉しめるものかどうか見極める。愉しみを見出せるところは愉しみながらやる。そして、どうしたって面白くない、時間がもったいないとしか思えない、そういうものだけ効率化する。

そうして、できるだけ多くの愉しくて非効率な時間を生きればいい。

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comment - コメント

愉しさ、幸せに効率を求めてはいけないのでしょうか?

> Vさん
もちろん、それが愉しくて幸せならまったく問題ないと思います。

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