この宇宙には結婚して“自由”が減る世界と増える世界がある

京都散策へ
 
 
そもそも、結婚に左右される“自由”とは何だろう?

ありていにいえば、「金」と「時間」の使い方、ということになるだろうか。もう少し包括的に「人生のリソース」と言い直してもいい。曰く「憧れのバイクを買いたいのに嫁の許可が下りない」。曰く「いまみたいに好きな服を買ったり、美味しいものを食べ歩いたりできなくなる」。なるほど、そういうことはあるかもしれない。ぼく自身、結婚して間もない頃は不自由に感じることがないでもなかった。ひとつは本を読む時間が減ったこと、もうひとつはインターネットに漂う時間が減ったこと。けれどもすぐに、それらを不自由だとは感じなくなってしまった。

なぜなら、ぼくは代わりに新しい自由を手に入れたからだ。

独身の頃、有意義な「金」と「時間」の使い道は限られていた。本、インターネット、映画、音楽、カメラ…そういった趣味に費やすことが、ぼくにはほとんど唯一の選択肢だった。だから、限りあるリソースのほとんどを、それらのために費やした。もはや思い出せないほどの本やCDを買い、こだわりのスピーカーやアンプを買い、知人の影響でデジタル一眼レフカメラを買い、数年に一度は新しいパソコンを買った。大型書店と大型レコード店と大型家電量販店は、ぼくの心を潤すオアシスだった。そうやって徐々に自分だけのモノを増やしていくことが、ありふれた地方都市の郊外で、特筆すべき何ごともなく日々を送るぼくの「心の拠り所」だった。

確かにぼくは、それらを自由意思によって「選択」していたのだし、いま思い返してみても、あれはあれで楽しい毎日だった。多少のマンネリはあっても、インターネットにつながっていれば小さな承認欲求を満たす糧くらいにはなった。ぼくを規定する情報があまりにアンコントローラブルな現実に比して、そこは身長も体重も顔も声も仕草も年齢も性別も関係のない“自由”な世界に思えた。蒐集した「心の拠り所」は、インターネットにおけるぼくのアイデンティティそのものだった。ぼくの人生は数少ない友人と、趣味と、インターネットで成り立っていた。人生のリソースをどれだけそこに費やすことができるか。それがぼくにとっての“自由”のすべてだった。

けれども、それは他に選択肢を知らなかったということでもある。

先月、ぼくはカメラを買った。新しいデジタル一眼レフカメラだ。それはもちろんぼくの趣味なのだけれど、自分が使うために買ったわけではない。相方に使ってもらおうと思って買った。といっても、相方のために買い与えた、という話ではない。あくまで自分のために買ったのである。カメラを買いたいと思ったとき、ぼくにはいくつかの選択肢があった。自分の古くなった一眼レフ機を買い替える、日頃から物色している交換レンズを買い足す、ようやく脂がのってきたミラーレス一眼に手をだす、あるいは、相方が使ってみる気になりそうな小型軽量な一眼レフ機を買う…。

最後の選択肢を選んだのは、それがいまのぼくにとって、もっともリターンが大きいと判断したからだ。これまでは、ぼくだけがどこへ行くにもカメラを持ち歩いていた。いまは、ふたりして一眼レフを肩から下げて歩き回っている。もちろん、合わせてくれている、という側面がないとはいわない。それでも、少なくともぼくは、いままでよりも一緒にでかけるときの楽しみが増えたし、相方もそうであってくれればいいと思っている。こうして、ふたりの時間にぼくだけの趣味をただ持ち込んでいたときとは違う、まったく別の楽しみがひとつ増えた。

そういう楽しみがあることを以前のぼくは知らなかった。知ることで、リソースの有意義な使い道はぐっと増えた。ぼくは自分が使うためのカメラを買い換えることもできるし、そのリソースを、ふたりで旅行にいってふたりで写真を撮ったり美味しいものを食べたりすることに割くこともできる。どちらもとても魅力的だし、どちらを選ぶかはぼくの自由だ。相方と付き合う前にはそんな選択肢は存在さえしなかったし、結婚する前はふたりで過ごす時間のために割けるリソースはいまよりずっと限定的だった。「いまのぼくの目で見れば」、ずっと不自由な世界で生きていたことになる。

結局のところ、それまでの生い立ちや性格や経験の積み重ねによって、ぼくは「ひとりで楽しく過ごすこと」に自らの価値観を最適化していったんだろう。それは死ぬまで続く人生ゲームを、できるだけ死なずに生き抜くための処世術だった。知らない世界の自由などないのと同じだ。だから、あの頃のぼくには「ふたりで楽しく過ごす自由」について考える必要なんてなかったし、そのためにリソースを割くという選択肢がないことを、不幸だとも不自由だとも思っていなかった。むしろ、自分以外の誰かのために、自分のためだけの自由が制限されることを恐れていた。

けれども、いまのぼくは別の選択肢が存在する世界を知ってしまった。そして、余暇を本と音楽とインターネットで塗りつぶすだけの自由を自由だとは思えなくなってしまった。もちろん、本と音楽とインターネットに浸る自由を、ぼくはいまも担保し続けている。ただ、ありったけのリソースをそこに割くことが最適解ではなくなった、というだけのことだ。こうした価値観の変容が、誰にでも、どんな相手とでも起こるとは思わない。

その意味で、ぼくは運がよかったんだろう。

就職する、結婚する、子どもができる、親と同居する、引越す、転職する、起業する…否応なく日常生活を変えてしまう人生のイベントは少なくない。現状にどんな不満や不自由があっても、その中で人は行動パターンを最適化し、最大限の“自由”を捻り出そうともがくものだと思う。そうやって手に入れた目の前の自由に、ぼくたちが執着するのは当然のことかもしれない。けれども、いまだ知らない宇宙のどこかには、いまだ知らない自由があって、それはいま自分の両手が握りしめているそれを捨てることではなく、拡張する契機かもしれないのである。

フリーターからサラリーマンになるときも、気ままな独身生活を捨てて結婚するときも、ぼくはなけなしの自由が失われることを恐れた。が、結果は逆だった。選択肢は増え、以前よりもずっとたくさんの自由を手に入れることができた。もちろん、同じ結果を不自由だと感じる人もいるだろう。自由な世界と不自由な世界。それらは見かけ上、まったく同じものかもしれないのである。そして、ぼくのこの胡乱な話は、成功者による成功体験と同じように、誰の参考にもならない一回性の個人的な現象にすぎない。ただ、いまある自由への執着が新たな自由を遠ざけることもある。いまのぼくは、そんな風に思っている。

自分を生かす“自由”の形は、思っているよりもずっと多彩かもしれないのである。

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