婚活男女が求めているものは結婚ではない何か

周囲でもリアルに婚活やそれに類する話を耳にするようになって久しい。

ずっと不思議に思っていた。いまこの時代、この国の一般庶民にどうして「結婚」なんてものが必要なんだろう、と。生活を伴にしたい異性が既にいるというのならまだ理解る。男女が一緒に暮らすなら制度的に結婚してしまうのがいちばん「楽」だろうと思うからだ。逆にいえば、結婚になんてその程度の意味しか見出せない。そういう人間が増えた。だから、見合いなんて結婚促進制度は廃れ、既婚率が激減しているんだと思っていた。が、思い違いをしていたらしい。切実そうな顔をして婚活に励む知人たちの話を見聞きしていると、もはや考えを改めざるを得ない。

そもそも既婚率が高かった時代の結婚の多くは強制に近いものだったはずだ。一から自分で相手を選んで自分のタイミングで結婚したなんてカップルはそう多くなかったろうと思う。つまり、既婚率低下の直接的な原因は、親族手配による強制婚の撃滅、お節介婆の絶滅、終身雇用下における上司からの紹介制度の廃滅といった、各種システマチックな結婚の消滅ということになろう。こうしてぼくたちは「望まない結婚」の頚木から自由になった。これは歓迎すべき消滅、来るべき自由だったはずだ。そして「ロマンスの帰結」としての結婚だけが無意味に取り残された。

変わったとはいっても、ぼくたちの親世代くらいになると「年頃になれば結婚するのが当たり前」だと思っている人は少なくない。こうした年長者たちによる狂信的かつ執拗な「結婚プレッシャー」はいまだ健在だろう。けれども、そんな外圧もすでに実効力を失いつつある。10代の終わり頃には仕送りとバイトで悠々自適のひとり暮らしを始め、そのまま就職してしまっていつのまにか独立、たとえ実家暮らしでも快適な自室に引きこもって親戚どころか親の顔もほとんど見ずに年頃を迎える。身近な他人もあまりプライベートなことには口出ししないことになっている。

そんな生活が染み付いたイマドキの人間が、旧来的な「結婚」を望んでいるとはとても思えない。昔風の見合いのごとき強制婚をすら望む声も聞こえるが、嘘に決まっている。あてがわれた相手を無条件に受け入れるのが、真に旧来的な強制婚の姿である。一方、友人知人に紹介された相手どころか、お金を払ってまで出会った相手ですら選り好みして結婚しないのが、多くの婚活男女の実態である。高望みはしないといいながら、「いままで出会えなかったレベルの相手」を探すのが婚活の本心だろう。それは、相手如何で自分の幸福が決まると思っている証左でもある。

「気侭な孤独」を満喫してきたはずが、いつのまにか幸福感という意味で逼塞しつつある。そんな人間が「結婚」という旧来的でわかり易い「人生のターニングポイント」に逃げ場を求めている。しかも過去の遺物でしかない「ロマンスの帰結」の本末が転倒して、婚活にロマンスを求めている節さえ感じられる。だから、これまでに出会っては却下してきたレベルの人間は要らない。…実につまらない話である。結局は他人に下駄を預けて幸せになろうとしているにすぎない。「いまここにいる不本意な自分」を矯正してくれるような「出会い」や「結婚」など夢である。

婚活なんて軽薄な流行がつまらない自分を「ここではないどこか」へ連れていってくれようはずがない。

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