意図せぬ抑圧、或いは、同調圧力の犯人はあなた自身

ぼくはたちは、およそひとりの例外もなく他者を抑圧してしまう存在である。

ぼくたちは、ただ生きているだけで同調圧力によって他者を抑圧している。ここ数日、結婚や出産を祝福することが、結婚や出産をしない、或いは、できない人たちを抑圧するという類の多くの意見を目にした。祝福は純粋に個人的な好意の表明であったとしても、結婚や出産を「善なるもの」とする政治的態度と客観的に区別はできない。簡単にいえば、不妊の男女にとって周囲で「当たり前に」繰り返される「祝福される出産」は極めて深刻なプレッシャーになり得るということだ。たとえ、祝福する人間に彼らを抑圧する意図がなくても、だ。これは何も出産に限った話ではない。

何故なら、こうした抑圧の根本は多様性のアンバランスにあるからだ。つまり、マジョリティはマジョリティであるというだけでマイノリティを抑圧してしまうのである。たとえば、友人の結婚や出産を祝福するといったぼくに「それは抑圧に加担することだ」というのは間違っていない。その通りだと思う。けれども、それをいった人がもし結婚や出産を経験して幸せに暮らしているとしたらどうだろう。その事実は、ぼくの発言なんかよりもずっと重い「抑圧への加担」だと思う。多くの人が当然のように結婚し、子をなし、幸せそうに暮らしていること自体が抑圧なのである。

たとえば、ぼくは五体満足な体で直立二足歩行する。外に出れば、多くの人が同じように五体満足な体で直立二足歩行している。ぼくは、それを「善なるもの」であるとか「当然のこと」だと表明しているつもりはない。けれども、四肢に障害や欠損を持った人たちは、まずこの「当たり前の状況」に抑圧される。ぼくの五体満足な身体は、意図せずともそうでない人たちに対する抑圧装置として働いてしまう。その事実に対してぼくは「あなたたちを抑圧する意図はない。つまらない劣等感など抱かないで欲しい」と表明するくらいしか抑圧に対抗する術を持たない。無力である。

繰り返す。ぼくたちは「意図せぬ抑圧装置」であることから逃れることはできない。死なない限り、その身体が、一挙手一投足が、政治的存在として図らずも意味を持ってしまう。当然のように社会的人間として振る舞うことが非社会的な人間を抑圧し、ありふれたヘテロセクシュアルであることが性的マイノリティを抑圧する。結局のところ、ぼくたちは自ら「意図しない抑圧」に気付いたとき、「ぼくはそれを意図していない」と表明するしか、それと闘う術を持たない。自分はヘテロセクシャルとして振る舞うけれど、ホモセクシャルの幸せも同様に祝福する、というように。

人は抑圧の罪から決して逃れられない。が、多様性を祝福し続けることはできる。

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