- 適当に働いて、適当に遊んで、適当に生きて死ぬ
- この宇宙には結婚して“自由”が減る世界と増える世界がある
- 何者でもないぼくの「自己愛」の自分史
- 「ぼくは年間500冊」「私は質の50冊」「オレは本より実体験」
- 婚活男女が求めているものは結婚ではない何か
- 何をやっても「面白くない」のは何故か?
- ネト充もリア充も会社充もみんな勝ち組である
- 嫌なことを後回しどころかやらずに生きる方法
- こんな時代に人生設計などすべきではない
- 完璧主義という便利ないい訳
- 人生が変わらないことは何かをやらない理由にはならない
- 安っぽい自己啓発が共感を呼ぶ本当の理由
- 意図せぬ抑圧、或いは、同調圧力の犯人はあなた自身
- あらゆる価値付けを悪だと叫ぶ二元論者のあなたへ
- 無意識に自分の価値を過小評価する人
- 効率化を考えるのは最後の最後でいい
- 匿名ダイアリーの自分語り=物語化という病
- 人生の勝ち負けを決めるのは誰か?
- 他人の弱さを不快に感じる人の弱さ
- 社会に出る前に捨てておくべき3つの財産
- 学校は人間をGoogle化するためにあるのではない
- 成果を出せない人なんてひとりもいない
- 将来に希望を抱けない?何温いこと…
- 学歴と知と実利とは根本的に無関係
- 誰にも強く否定されない目標は夢ではない
- 仕事どころか何もかもが暇つぶし、から始まる愉しいM人生
- 「仕事」の半分は「きれいごと」でできている
世の中を動かすのは個人の意思を超えた何かである
確かに状況を変えるというのは面白い。それは端的に力を行使し実感する喜びである。
10の心がけに異論はない。ただ、世の中を動かす、は余計だろう。こういうのを一般に処世術という。敢えて、自分の非力を棚に上げて書く。個人が変えようと思って変えられる「状況」なんて相当に限られている。まず、自分が認識できない状況は意識的には変えようがない。そして、個人が認識できる世界なんて高が知れている。その意味で、ぼくは「世の中を動かす」という行為が成立するとはあまり信じていない。もちろん、歴史を振り返れば世の中を変えたように見える人はいくらでもいる。けれども、ぼくはそれを「風が吹けば桶屋が儲かる」に近い現象だと思っている。
たとえば、庶民に自動車を普及させたフォードは文句なしに世の中を変えた。けれども、彼が車社会の驚異的な発展や都市景観の変化、原油価値の高騰、極東の島国の経済大国化などなど、世の中の恐るべき変革を予期したり目指したりしていたとは思えない。フォードは安倍前総理が今の日本に与えたよりもずっと大きな変化をその後の世界に齎した。けれども、その多くは「予期せぬ」或いは「予期できない」変化だったに違いないのである。世の中を変えるというのは、恐らくそういう予期せぬ連鎖を起すことであって、それはすでに個人の意思や事の善悪を超えた事象だろう。
だから状況を変える努力なんて無駄だというのではない。状況を変えたいなら変える努力をすればいい。それはきっと自分の幸福に繋がる。ただし、あくまで変えられるのは自分を取り巻く状況だけだ。自分を取り巻く状況の範囲には個人差がある。広範囲を変えたいと思えばより大きな範囲にコミットしなければならない。そういうことに幸せを感じる人は頑張って所属領域の拡大に励めばいい。ただし、影響範囲の拡大はそのまま予期せぬ範囲の拡大に繋がっている。フォードは自動車で命を奪おうと思ったわけではないだろう。けれども、現実には無数の命が失われ続けている。
世の中を変えるということは、予期せぬ変化をも受け入れる、或いは、その可能性を忘れることだ。Aを救った善意は、一方でBの行き場を失わせたかもしれない。Bが認識できる範囲の外にある場合、Aを救った善意は自分を満足させるだろう。認識に限界がある以上、これは避けようがない。そのことに意識的に生きることは辛い。だから現実的なのは、目に見えない限り自分はただ善を成したと信じることだ。つまり、自分の目の届く範囲の幸福を求めて生きることだ。敢えて安価なチョコレートを食べながら、搾取されるカカオ原産国の子供たちの命の重さを考えることはない。
人はただ、自分の目の届く世界の幸福のためにのみ精一杯生きればいいのである。
【関連して読んだサイト】
・ゆっくり世の中を動く10の心がけ - finalventの日記
#こちらもあわせて読むとバランスが取れて良い感じ。
・404 Blog Not Found:とっとと世の中を動かすたった1つの心がけ+3つの理由
#自分自身と変化することの絶対的善性を信じて初めて行き着ける境地。
posted in 08.07.03 Thu
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comment - コメント
最後の二行には納得がいきません。違うと、思う。
posted in 08.07.06, by civaka
> civakaさん
ご意見ありがとうございます。
最後の2行は、ぼく自身難しいところだと思ってはいます。けれども、結局はどんな過酷な現実があっても、そこに目や手が届く人と、そうでない人がいることは変えようがないと思うんですね。カカオはただの一例にすぎなくて、ぼくたちが生活する中で享受しているあらゆる恩恵の裏には、まったく想像もしないような犠牲が払われている可能性がある。今使っているパソコンの部品ひとつ取っても、すべてが関わったすべての人の幸福だけに繋がっていると信じることは難しい。けれども、あらゆる不幸の可能性を常に考えて生きることはできそうにもないし、そうすることに意味があるとも思えない。逆に、あらゆる不幸は、誰かの手の届く範囲にあるんじゃないかと思うんですね。だから、みんなが手の届く範囲の幸福を追求するくらいしか、有効な手立てはないんじゃないか、というのが今のところのぼくの結論ということになります。もちろん、まったく違った意見もあるはずです。civakaさんはどんな意見をお持ちですか?
posted in 08.07.06, by lylyco
はじめまして。
ご返事ありがとうございます。
確かに私たちは、ほとんどのことは、どうしようもなく、見ているしかありません。それでも、そのことを知っているか、いないか、いつもでなくても、心のどこかで意識していたいと、私は思います。
一円で安いと思う意識が、地球の裏側で過酷な子供の労働につながっていること。一円でも安いものを買うことが、いままでなら、賢い主婦であったしてても、これからの時代は違うという価値観の変化は、やはり、認識すべきだと、思います。世界の経済がグローバルなつながった現在。今までの価値観だけでは、いけないのでしょう。
今すぐになにもできなくても、知ってるか取らないかで、たぶん、いつかそれに関係したことに出会ったとき、私たちの対応は変わるのではないでしょうか。
「ブラッドダイヤモンド」の映画を見たことでダイヤモンド一つ買うことになった時にも、選び方が違うし、知識によって、選挙の時にも、誰を選ぶか、違ってくると思います。それは、自分に手の届く範囲での行動ですが、世界につながっているのだし、普段の意識次第で、違うはずなのですから。
だから、「考えることはない」と、「言い切ってしまう」べきではないと、思います。
posted in 08.07.07, by civaka
> civakaさん
なるほど、心がけとしてはそうですね。知ることの大切さというのは確かにありますよね。そのためのアンテナを高くしておくことは、誰かの、そして、自分自身の幸福のために有効なことだと思います。「考えることはない」というのは、ちょっと表現を単純化しすぎて極論めいてしまったかもしれません。
posted in 08.07.07, by lylyco