あらゆる価値付けを悪だと叫ぶ二元論者のあなたへ

反婚中田氏ハッピー

あなたは、Aさんのことをとても好きになった。そう、心から愛している。

けれども、あなたは煩悶する。「Aさんを素晴らしいと思う」ことは「Aさんではない人を貶める」ことになるではないか。ダメだ。ダメだダメだダメだ。そのことに思い至ったあなたは、もう誰も好きになることができない。誰かを好きになるたびに、その誰か以外を否定しているのだという自己嫌悪に苛まれる。あなたの世界は「Aさんは素晴らしい。もちろん、Aさんでなくても素晴らしい人はたくさんいる。しかし、今の私にとってはAさんこそが最高なのだ」という多元的価値を認めない。それは単純で美しい二元論の世界だ。何かに価値を見出した瞬間、それ以外のものは否定される。

ぼくの世界はもっと複雑だ。ぼくは友人Aと友人Bが結婚したことを祝福した。信じてもらえないかもしれないけれど、実のところぼくは「結婚」という制度を祝福したわけではない。「ぼくは、あなたたちの選択を支持しますよ」という気持ちの表明として「結婚おめでとう」といったのである。初夏、彼らの子供が産まれた。ぼくは「出産おめでとう」といってそのことを祝福した。けれども、ぼくは彼らの家族を祝福したのであって、出産の価値を支持したわけではない。彼らが生後まもない赤子を間にして幸せそうにしている。そのことをぼくは素敵だと思った。それは祝福すべきことだ。

ぼくが誰かを祝福するとき、ぼくはその人の人生を支持し、好意を表明しているのであって、彼らの「価値観コード」を支持しているわけではない。そして、それ以外の価値観を否定しているわけでもない。彼らが結婚しないという道を選んでも、ぼくはその選択を支持するし、子供を作らないという道を選んでも、彼らがちゃんと納得して選んだ道ならそれを支持する。「子供ができたから」彼らに価値があるのではない。価値ある彼らの人生に起こった「特別なイベント」だから、祝福という形の好意を伝えた。それだけのことである。だから今以外の選択も含めて、ぼくは彼らを祝福する。

そして、ぼくは哀しく思う。「少数派なんて知るか、俺達私達この既存の価値観で別に不便じゃないんだから、異論を唱えるあんた達がどうかしてる、こっちに有無を言わず従え、ってなことを、言っているのだ」という、目でしか「祝福する人々」を見られない人がいることを。祝福が「価値観」ではなく「人」に与えられるということが理解できない人がいることを。既に匿名氏の書くような価値観の相対化は相当に進んでいる。「子供ができる」ことも「子供ができない」ことも、「一般論として」幸不幸を決めることなどできないとみんな知っている。できても不幸になるかもしれない。

だから祝福には意味がある。「あなたの身に起こったことは素敵なことだと、ぼくは思うよ」と伝えることには意味がある。当人たちが幸せを感じていなくても、だ。それが祝福だ。匿名氏はいう。「『じゃあどうするよ?』ってのはまた別の話だ。(中略)(てか俺にもわからんし)」と。簡単だ。あなたは、あなたの大切な人に「俺はお前のことを祝福する」と伝えてあげればいい。それは、それ以外の人々を否定することを意味しない。心配しなくてもいい。「子供ができた友人」も「子供ができない友人」も、同じように価値がある。みんな、もうあなたの思考の一周先をいっている。

だから躊躇うことなく、あなたはあなたの大切な人たちを心から祝福すればいい。


(追記)

言い訳めいてあれなんだけれど、非常に短絡的ないわゆる善悪二元論が念頭にあってこんな書き方になっているだけで、二元論一般を短絡的な思想だと主張するつもりはない。というか、ぼくには二元論一般を批評できるほどの知識などないのであしからず。

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