ネト充もリア充も会社充もみんな勝ち組である

人生を何で充実させるのが幸せかは人それぞれでいい。

リア充でもありネト充でもある人が、会社充とは限らないんだね・・・

これでは、会社充でないのが残念だ、というように聞こえる。もちろん当人が会社充でないことを残念だと思っているならそれは残念だけれど、少なくとも匿名氏に残念がられる謂われはない。同じ意味合いで、そのニュースサイト管理人がリア充でありネト充であるのかも本当のところは判らない。ただ、「すごい精力的」にサイトを更新するにはバイタリティが要る。バイタリティが湧いてくるなら、それは限りなく「充実」に近いとはいえるかもしれない。ネト充なんて言葉で一般化するとややこしくなるけれど、ニュースサイトの管理でなにがしかの充足を得てはいるんだろう。

ここではスラングとしての「○充」が持つ微妙なニュアンスについてはあえて触れない。ただ、「それぞれのフィールドで充実している」という字義通りの素直な解釈をしておく。世間的には「仕事で充実すること」こそが幸せであるかのような風潮がいまだ根強い。それは仕事が食うために絶対必要なものだからだろう。どうせやらなきゃいけないなら厭々やるより愉しんでやる方がいいに決まっている。もちろん、ここでいう仕事は他人に対して「価値」を提供すること全般を指している。分かりやすい労働だけが仕事ではない。その意味で、すべての人間は必ず仕事をしている。

ただ、端的にお金に換えられる、或いは、換え易い「価値」というのは結構限られている。だから、まるでそうした仕事ばかりが仕事であるかのように思われる。そして、それ以外の「価値」が不当に低く扱われる。古風な例を挙げるなら、たとえば外で働くオトーサンが家を守るオカーサンを隷属させて疑問に思わないような価値観である。そんな心の奥底に染みついて硬直した価値観は、決して少なくない人たちを不幸にする。リンク先の匿名氏の言葉の端々に「会社充」への信仰が見て取れることにも病巣の深さは窺える。「会社充」など所詮は無限の中の一選択肢にすぎない。

充実するということは、そこに自らの(あらゆる意味での)労働資源を注ぎ込むということだ。ダラリと息を抜いた充実というのは、まず、あり得ない。充実は緊張と弛緩の絶妙なバランスの上に初めて成り立つ。集中しっぱなしも弛緩しっぱなしもダメである。もちろん、最適なバランスには個人差がある。他人から見れば息つく暇もないくらいに見えて実は最高に充実しているという人もいるだろうし、逆に、他人から見ればいつ集中しているのか分からないくらいに弛緩の比重が高い充実だってあると思う。決して、リアルもネットも会社も充実すれば幸せというものではない。

だから、自分に最適なバランスを取っていく上で、会社が集中の場にならなかったからといって、その人生が空虚なものだと決めつけることはできないし、一方で、会社のことばかりでプライベートを顧みない人生なんて虚しいと決めつけることもまたできない。どちらも凝り固まった価値観に精神を支配された同じ穴の狢である。問題は、集中がどこかに偏っていることではない。そもそも集中というのは偏ることだ。すべてにフラットな集中があり得ない以上、すべてにフラットな充実もない。そして、本当に問題なのは限りなくすべてがフラットに近付いてしまった人生だろう。

何に対しても充実できない…これを克服することの方がずっと難しい問題である。

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