嫌なことを後回しどころかやらずに生きる方法

本当に嫌なことならやらなくていい。

そうはいっても、人生は嫌なことに満ち満ちているではないか。その通りだともいえるけれど、そうでない見方もできなくはない。ものごとを短期的に見るからいけないのである。視野狭窄は不幸の元と相場は決まっている。ここはとりあえず、中期的に考える。大抵の面倒事は「何かの一部」である。一歩引いて「もう少し大きな部分」を見る。それは果たして重要なことか。たとえば、業務日報を書く。これは大層面倒だ。放り出す前に一歩引いてみる。これを正しく書くことで正しく業績が評価され、社内で適切な立場や待遇を得られる。それは自分にとって重要なことか否か。

これは将来のために今を我慢しろという話ではない。もしも、業績をより良く評価され、それなりの待遇を得ることが自分にとって有意義なら、その手段としての業務日報はむしろ書き甲斐のある書類のはずだ。部分を取り出してみただけでは面倒なことも目的如何によって愉しくやり甲斐あるものになる。そういうことは少なくない。料理が生き甲斐だという人は包丁の手入れを怠らないだろうし調理場もきれいに整頓、清掃されているはずだ。それは必ずしも整理整頓や掃除一般が得意だったり好きだったりすることを意味しない。料理抜きの掃除はただ面倒なだけかもしれない。

要するに、すべては目的意識の問題だ。待ちに待ったゲームソフトを買いにバス電車を乗り継いで街に出る。怠惰な妻に命じられて人気スイーツを買いにバス電車を乗り継いで街に出る。わざわざバス電車を乗り継いで買い物にいくのは、それだけみれば面倒で「嫌なこと」である。が、前者は「愉しいこと」で後者は「嫌なこと」である。そして、「怠惰な妻」が「大好きな恋人」に変わるだけで「ウキウキがとまらないこと」にもなる。実のところ、「怠惰な妻に命じられて」というのも事実というよりは感情の問題である。そうとしか思えないことが、そもそも問題なのである。

何かをはじめるときはタスクを細分化し優先順位をつけて片付けていくのが有効だ。けれども、大局を見失って細分化された作業だけ見ていてはいけない。すべてが面倒になる。キーボードを打つなんて面倒だし、メディアをドライブにセットするなんて面倒だし、わざわざ人の家に行くなんて面倒だ。けれども、それらを愉しいことの一部と捉えられるならそれは面倒ではなくなる。みんなが読んでくれるブログを書くのは愉しいし、大好きなゲームをやることは愉しいし、セクシーな恋人の家でセックスすることは愉しい。愉しいことを細分化してつまらないと思い込むなど不毛だ。

ただし、調子に乗って大局を見すぎてもイケナイ。悠久の時間と広大無辺の宇宙の中にあっては人の生など無に等しい。そこまで視点を引いてしまうと生きていることに意味なんて見出しようがない。そんなことはいうまでもなく前提である。人は意味もなく生まれ、生きて、ただ意味もなく独り野垂れ死ぬのである。ただひとりの例外もない。そこに自分なりの生きる意味や愉しみや幸福を、人類がその短い歴史の中で自ら発見し育ててきた尊ぶべき幻想を、快楽や苦痛といった所詮は機械的な生体反応にすぎない経験の中から紡ぎ出していく。それが人の生というものではないか。

裏を返せば、嫌なことをやらなければならないほど人生に意味などないのだ、ともいえる。


【インスパイアされたページ】
「嫌なことを後回しにする人」から脱却する方法:IT&ウェブ業界の転職をサポートする「CAREERzine」(キャリアジン)
#この人くらいポジとネガのバランスがいいとライフハックネタも読み易い。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/618

comment - コメント

コメントを投稿

エントリー検索