誰にも強く否定されない目標は夢ではない

ぼくは夢を語れる人を羨ましく思う。

夢を全否定された気分に陥った。 - 手錠で首絞めてやろうか。

ぼくには夢がない。今も昔も。もちろん大学進学だって夢なんかじゃなかった。志望校を決めたのは高校1年の終わり頃で、その頃の成績ではとても行けそうにない大学だった。けれども、まだ2年あった。地力を底上げするのに必要なのはある種のストイックさだけで運や才能は要らない。それは、何にストイックになれるかまで含めて才能だといえばその通りかもしれない。たとえばプログラミングの才能というのは、ストイックにプログラム技術習得に注力できる才能のことだと思う。まれに先天的としか思えない才能もあるけれど、それはかなり特殊な例だ。

そういう考えで生きてきたから、目標は持てても夢は持てなった。達成できそうにもない目標は、ぼくにとって目標ではなかったからだ。そういう意味では、自分の努力の量をある程度見限って生きてきたのかもしれない。だから、将来のことを語っても否定されたことはない。そして、恙無く無難に生きている。否定されないというのはこういうことだ。それは現実的な判断ですね、といわれているに等しい。傍から見て無謀に思えるから否定される。ここでいう夢は現実的な目標のことではない。つまり、夢というのは否定されるのが当然だということになる。

世の中には夢を応援してくれる人もいるだろう。たいていは、どうせ無理だろうけれど応援くらいはしてあげようとか、実は全然興味がなくて適当に相槌を打っているだけとか、その人の実力を良く知らないとか、そんなところだと思う。この手の肯定は気休め以上の意味を持たない。ならば夢を見る人間がそんなものを求める必要はない。まあ、稀に一緒に夢を見てくれる人もいる。優れた伴走者がいることで成し遂げられる夢もあるかもしれない。が、それは運だ。自ら運を期待するのは虫が良すぎる。夢を持ったなら味方は自分ひとりと思い定めるよりない。

夢を否定されて凹む必要は、だからない、とぼくは思う。もし、それを本当に夢だと思っているなら、だ。夢といいつつも実は心のどこかで、客観的に見ても、もの凄く努力すれば現実味がないこともないんじゃないかとか、自分でも気付いてない潜在能力ってやつに少しくらいは期待してもいいんじゃないかとか、だから本気で頑張れば大丈夫だよとかいってもらえるんじゃないかなんて思っていると、否定されて凹むことになる。というか、そう思ってないなら凹む理由が分からない。否定されて諦めるというのは、夢を持った人のやることではないとぼくは思う。

夢を追うことが幸せかどうかはやってみないと判らない。賭けるのは自分だ。

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