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- 何者でもないぼくの「自己愛」の自分史
- 仕事ができる人の3つの才能とその獲得可能性
- 「ぼくは年間500冊」「私は質の50冊」「オレは本より実体験」
- 婚活男女が求めているものは結婚ではない何か
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- みんな社畜で市場の飼い犬で性奴隷で肉の虜囚である
- 凡庸なぼくたちがうまく職場で共存する秘訣
- ネト充もリア充も会社充もみんな勝ち組である
- 嫌なことを後回しどころかやらずに生きる方法
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- 人生が変わらないことは何かをやらない理由にはならない
- 安っぽい自己啓発が共感を呼ぶ本当の理由
- 意図せぬ抑圧、或いは、同調圧力の犯人はあなた自身
- あらゆる価値付けを悪だと叫ぶ二元論者のあなたへ
- ありもしない同情に怒る心の屈折
- “ホウレンソウ”の悪用が蔓延る日本企業
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- 凡庸なるオートマトンのためのエリート・ハッキング・ガイド
- 無意識に自分の価値を過小評価する人
- 労働者自身の「経営」とは結局のところ何なのか?
- 仕事は何のためにするべきか?
- エリートとは決してIT成金みたいな人を指す言葉ではない
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- 他人の弱さを不快に感じる人の弱さ
- 社会に出る前に捨てておくべき3つの財産
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- 悪いのは忘れる上司なのか
- 面接には極意よりも行動力
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将来に希望を抱けない?何温いこと…
最初に結論を書いておく。希望なんて要らない。まったく不要だ。
・将来に希望を抱け? 何温いこといっているんですか? - 責任なんて絶対とらねぇ
ぼく自身の世代を明かしてから書き始めるべきだろうか。大学卒業が1998年。前年の1997年を象徴する漢字は「倒」。倒産の「倒」だ。1997年というのは、潰れるはずがないと誰もが思っていた大企業が倒産し、護送船団方式に守られていたはずの銀行が破綻した年だ。バブル崩壊から7年、一瞬上向くかに見えた景気は、一転、どん底まで転がり落ちた。そして、就職氷河期はピークを迎えた。当時のぼくはといえば、なんと就職活動もせずフリーターになった。はっきり書いておく。これは時代のせいなんかじゃない。不況を隠れ蓑に気楽なバイト生活をしていただけのことだ。
バイトの仕事は壮大な目標や将来の希望を与えてはくれない。ただ、こなすべき仕事だけはコンスタントに与えてくれる。そういうものだ。そして、そんな仕事をこなすだけの毎日がつまらないとしても、それは世の中のせいなんかじゃない。少し考えればわかることだけれど、これはバイトに限った話でもない。就職しても同じだ。会社は被雇用者に夢や希望を与えるためにあるわけじゃない。夢や希望を与えようと頑張る経営者はいるかもしれないけれど、それは経営者の資質であって会社というシステムが持つ性質ではない。経営者に恵まれればラッキーというだけのことだ。
将来にどんな希望を抱きたいのか。本当の問題はそこにある。将来に希望を抱けないという人の希望とはいったい何なのか。リンク先の論旨からすれば希望を抱ける社会とは、「雇用が安定」していて、「まともな社会観を伝えてくれる大人」がいて、身近な大人たちが「つらいつらい、大人になればわかる。お前たち子供は幸せで良いよな」なんていわない社会ということになる。そういう社会なら、みんな将来に希望を抱いて生きていける…本当にそうだろうか。社会は変わらないんだろうか。そして、そんな自分たちの明るい未来は誰かが用意してくれるものなんだろうか。
たとえ今が最高にハッピーな社会だったとして、今の子供たちが大人になってもそのままだという保証はない。そんなことは誰だって知っているはずだ。ハッピーな大人たちの社会を見て自分たちの未来もバラ色だと考えるのは勝手だけれど、未来は不定形のものだし未来を作るのは未来の大人たち、つまり、今の子供たちだ。今の子供たちがハッピーな社会を維持できるとは限らない。それは、今がアンハッピーな社会だからといって、自分たちの作る未来までもがアンハッピーだとは限らないことを意味してもいる。今の社会だけを見て希望がないというのは余りに受動的だろう。
希望という言葉は使いようだけれど、周囲に期待するだけの希望ならない方がいい。
posted in 08.05.29 Thu
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