仕事は何のためにするべきか?

今の日本で生きるためにはお金が要る。

これはたぶん変えられない。たとえ先祖代々の土地があっても、自給自足はできないようになっている。行政サービスを受けないという選択肢がないのだからしようがない。納税は国民の義務だという。つまり、日本に生きているというだけでお金がかかる。川で水を汲み、かまどで火を熾し、家庭菜園の作物だけを食べる。そもそも、そんな生活を試みたところで、広大な山林でも持たない限り、お金を使わずには薪一本手に入れることも難しい。きっと、菜園の維持にもお金はかかる。本来、水汲みも薪割りも耕作も立派な仕事だ。けれども、それで自足することは許されない。

そこで、お金を貰える仕事をしようということになる。この場合、仕事の目的はお金である。それも、生きるためのお金、だ。ここまでなら、生きることと仕事をすることはほとんどイクォールに近い。ここでよく出てくるのが「オレは何のタメに生きているのか?」という疑問である。ただ、生きるためだけに生きていることに疑問を抱く。そこで、生きるための仕事を効率化して余暇を作ってみる。ところが、生きるためのお金しか稼いでいない。今の日本でお金を使わずにできることは少ない。テレビもネットも読書もお金がかかる。徒歩で行ける範囲など限られている。退屈だ。

じゃあ、余暇を愉しむためのお金を稼ごう。そういうことになる。仕事の目的は相変わらずお金だけれど、ただ生きるための仕事ではなくなる。ただしこの段階ではまだ、仕事はあくまでも手段であって目的ではない。そして、余暇に娯楽が加えられる。仕事は耐えるもの。余暇こそ我が人生。そういう心境になる。子供の頃から今我慢すればいいことがあるといわれて育ってもいる。収入が増えるのは嬉しいことだし、娯楽の幅はその分広がる。ところが、余暇というのは普通生活の大半を占めてはいない。つまり、耐える時間が圧倒的で、我が人生はほんの少しということになる。

なんだかんだいっても、お金はある程度の欲望を満たしてくれる。ただし、一般に人間の欲望にはキリがない。キリがない上に、どんどん鈍感になっていく。つまり、対価の割りに満足度は低くなっていく。で、再び自問する。「オレは何のタメに生きているのか?」と。人生の大半を耐えることに費やしてただ物欲を満たすことに虚しさを覚える。そもそも、人生の大半を占める仕事の時間を仮の自分として生きるなどナンセンスではないか。ここへきて「やりがいのある仕事」という新たな目標が現れる。つまり、仕事も余暇も我が人生にしてしまえばいい、という発想である。

ついに、仕事はただ手段であることを止めて目的となる。そして、ここで求めれるのはプライスレスな価値だ。成功体験や承認体験を始めとする心の充足といってもいい。これをぼくは幸福と呼ぶ。仕事も余暇も我が人生であれば、余暇が欠けても短期的には充実した人生を送れるだろう。そういう仕事人間は少なくないと思う。傍から見てツマラナイ人間だと蔑むのは酷く的外れだ。ただ、投資と同じで人生の一点賭けは危険かもしれない。生きる愉しみが一箇所に片寄ると、それを奪われた時に行き場を失う。人生の愉しみ方は幾つか持っている方がいい。人生の分散投資である。

ともあれ、仕事は幸福のためにする、という至極平凡な結論にたどり着く。

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