仕事ができる人の3つの才能とその獲得可能性

会社で用を足そうとトイレに入る。ペーパーホルダーに目を走らせる。ない。罠か。否、古典的すぎる。敵の匂いはない。感じ取れるのは先人の仄かな残り香くらいだ。おそらく30分以上は経っている。すばやく個室内の予備をセットする。問題は、ない。無事コトを終えたぼくは一度個室を出ると、予備を補充しに再び個室に戻った。完璧だ。…とまあ、ぼくはこの種の才能には恵まれていて、大抵ソツなくこなして見せる。大変に立派なことだ。誰も褒めてくれないので極めて控えめに自画自讃してみた。さて、のっけから俺は仕事ができるんだぜアピールをかましたところで本題に入る。トイレを例に3つの才能について考えてみたい。

1. 仕事を処理する才能

これは要するにスキルの話だ。スキルアップ、効率化、継続は力、とかなんとか。いわゆる仕事術として語られることの多いテーマでもある。たぶん。ごめん、ビジネス書とか読まないから実はよく知らない。ともあれスキルというのは様々な才能に支えられている。ぼくは幸運にも、さしたる努力も要せず、トイレットペーパーを補充するためのスキルを身に付けることができた。生まれた時から実家にはトイレがあり、物心つく頃にはスキル習得の機会を得ることができた。ホルダーの軸の外し方がわからなければ親に訊くこともできた。さらには、そこそこ思い通りに動く両手と、ホルダー構造を理解できる程度の知能も備わっていた。

我ながら才能が溢れすぎてて怖い。トイレに入って紙がない。ままあることだ。それは、補充できない人間が少なからずいることを示唆している。最近はガシャンと下から上にロールを押し込むだけでセットできる便利なホルダーもあるけれど、軸を外してセットするタイプの旧式だと相応の交換スキルを持たない人間には少々厳しい事態とならざるを得ない。このスキルはまだまだ世界に必要とされている。ただ、技術革新のために今後不要になる可能性はある。スキルを背景に世を渡っていくつもりなら、常に自らスキルを更新し続ける必要があるだろう。あるいは、特異な技術を高いレベルで身に付ける、という手もあるかもしれない。

2. 仕事を厭わない才能

自由に動く両手も、ホルダー構造を解する頭もある。つまり、その気になればペーパーの補充ができる十分な才能に恵まれている。にもかかわらず、その才能をみすみす無駄にし、怠惰にまかせて行使しない。そういう人間がこの世には存在するらしい。嗚呼、なんという才能の無駄使い!…じゃないか、使ってないんだし。そして、ここにひとつの才能が立ち現れる。「誰かがやってくれるだろう(自分でやるの面倒だし)」、「こんなの自分の仕事じゃない(誰の仕事か深く考えたことないけど)」、「次の人、気づかずウ○コしたらウケるー(自分だったらキレるけど)」…そんな心の声に惑わされない、自律心という名の才能である。

我ながら才能が溢れすぎてて怖い。トイレの平和は俺が守る!やりがい搾取?ナニソレ?面倒がらずにやる才能がない人の「できないのではなくやらないのだ」は欺瞞だ。心理的な理由で「できない」が正しい。だから、トイレットペーパーを補充「できない」人間は思いのほか多いのである。この才能は勉強だけでは手に入りそうにない。意識の変革が必要だ。ビジネス書でいうなら自己啓発の類だろう…ごめん、読まないからよく知らないけど。そもそも面倒だというなら浮世のすべてが面倒だ。はああ~息をするのも面倒でいやだ。駄々をこねても、新世紀を迎えちゃったこの世界にケンはいない。誰も優しく殺しちゃくれないんだよ。

3. 仕事の存在に気づく才能

あ、ペーパー使い切っちゃった。ここで「補充しとかなきゃ」と思わない。だから補充できない。スキルがないのでも、面倒なわけでもない。そもそも仕事の存在に気がつかない。自分が使うときにそれがあるかないか。それ以上は考えない。たとえ大きな用を足した後で紙がないことに気づいても、ただ困るだけで「誰だよ使い切って補充しないやつ!」とか「またこんなことがあったらいやだから補充しとこう」とか思わない。あるかないかは運である。言われたことを何度忘れても決してメモを取らないとか、いくら資料や備品を失くしてもデスクの整理ができないとか、そもそも失くしても気にならないとか。気づく才能の根は深い。

我ながら才能が溢れすぎてて怖い。ぼくは幼い頃から何度となくペーパートラップに遭遇してきた。その経験から「ペーパーを補充することは自らのみならず、人々の心の平穏を守る重要な仕事だ」ということに気づくことができた。仕事に気づくことは仕事を自ら生み出すことでもある。「トイレの平和を守る」という使命に気づく。それ自体が才能と呼ぶべきものであることは、もはやいうまでもないだろう。ビジネス書でいうなら起業だとかその手の…いや、このネタはもういいか。ともかく、この「気づく才能」はとても根源的で、そもそもこれがないとあらゆる仕事は成り立たないといっていい。もっとも獲得の難しい才能だろう。

○ 総括

さて、あまりに立派なぼくを仰ぎ見て、「自分には才能がない」と嘆く必要はない。確かにぼくはトイレットペーパー補充における稀有なスーパーエリートで、その才は専ら自ら認めるところだ。けれども、実は、これら3つの才能はまったく局所的にしか発揮されないものでもある。こんなに世界平和に貢献しているぼくだけれど、バスケットボールではレイアップシュートもおぼつかない盆暗だし、日がな体育館でドムドムドムドムやり続けるなんて面倒なことはまっぴら御免だ。そもそも、どうすればフンフンディフェンスやゴリラダンクができるようになるのかなんて、想像もつかない。どうやらぼくにはバスケの才能はないらしい。

それに、3つすべての才能がなきゃダメかといえばそんなこともない。気づきの才に恵まれた人が、有能な技術者や勤勉な実践者と組んで成果をあげる。つまり、組織的に動くことを考慮するなら、活かせる才能の幅はぐっと広がる。組織化は個々人の「できる」ことを増やす有効な方法だ。自分で仕事を作れない、つまり、気づけない新社会人が、仕事をつくってくれている上司を無能呼ばわりする。これを若気の至りという。社会にでたばかりのうちは、特に3つめの才能は見えにくい。仕事は押し付けられるもの、なんて思っているうちはなおさらだ。その才能に気づいたとき、彼はさめざめと悔恨の涙を流し成長の階段を昇るだろう。

ぼくはデザイン会社に勤めている。ここには、トイレットペーパーの補充ができない人や、デスクの整理ができない人や、メモを取れない人や、ゴミをちゃんと捨てられない人や、メールの誤字脱字が怪文書レベルの人なんかがわんさといて、じゃあ、仕事ができないのかといえばそんなことはぜんぜんない。素晴らしいデザインを生み出すための意外な気づきや、0.1mm の差異すら人手に委ねない自律心や、瞬時に気持ち好いレイアウトやカラースキームを生み出すスキルをもって、その才を存分に発揮している。だから、彼らにトイレットペーパーを補充する才能がなくともまったく構わない。それは、才能に恵まれたぼくの仕事である。

いけない、そろそろぼくの括約筋が限界のようだ。


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