凡庸なぼくたちがうまく職場で共存する秘訣

同僚に対する不満を溜めこんだ挙句に会社を辞める。

別に悪いことではない。無理につまらぬ人間と働く必要はないのだし、才能ある気持ち良い人材に溢れた職場というのもこの世のどこかにはあるのかもしれない。それを探してみるのも一興、独り立ちしてやっていくのも一興だろう。が、大抵の人間は凡庸である。つまらぬのは同僚ばかりではない。能力の総和にさしたる差はなく、たまたま「社会的に有用な」能力に恵まれた人間が「才能ある人材」として尊ばれる。まあ、中には際立って有用な能力ばかりに恵まれた人というのもいて、それは確かに生きるに便利かもしれないけれど、それとてちょっとした能力の偏りにすぎない。

同僚に対する不満というのは、煎じ詰めれば「自分が望む他人ではない」ということだ。そんなのは当りまえのことである。他人というのはあなたの快適のためにそこにいるわけではない。あなたが同僚のために働いているわけではないように、同僚とてあなたのために働いているわけではない。あなたが誰かを不満に思うように、誰かもあなたを不満に思っている。必ず思っている。そして、彼我の「快適」にはマリアナ海溝よりも深い溝がある。あなたの望む最適解は、あなただけのものでしかない。どこか相容れる部分はあっても、ぴたり重なるなんてことは金輪際あり得ない。

同僚というのはいうなれば「環境」の一部である。あなたの意図や希望とはまったく無関係に存在している。会社がある場末の雑居ビルがあなたの希望を汲んでオシャレな自社ビルに変わったりしないように、同僚の勤務姿勢はあなたの希望を汲んであなた色に染まったりは、普通は、しない。もちろん社屋も同僚の心も変えることは不可能ではないけれど、それだけのことがあなたにできるならそもそも同僚がダメだから辞めたいなどといってぐずぐず燻ってなどいない。できていないということは、あなたの運や能力は時流を得ていないということである。それは凡庸の証である。

誰かにとって尊敬の的でも憧れの的でもない。その程度に凡庸な者同士が不満を抱え合っていてもはじまらない。多くの凡庸な人間にとって「環境」は適応したり利用したりするものである。スープを前にフォークを握りしめて「どうしてスプーン程度のことができないんだ!」と文句をいっても仕方がない。その同僚はフォークとして使ってあげれば凡庸なりに有用で、共に働く人間としても決して悪くないはずである。あなたはフォークとスプーンの役割を同時に果たせるかもしれないけれど、菜箸の役までは果たせないかもしれない。だったらできる同僚にやってもらえばいい。

それは、自分自身も含めた個の多様性を認めるということでもある。

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