「仕事」の半分は「きれいごと」でできている

仕事は生きる糧を得るためのものだ。

そのことに異論はない。ただし、生きる糧の意味はそれほど単純じゃない。ただ食料を得るだけでは不十分だ。人間は今日に到るまでに生き物としてずいぶんと複雑になった。たとえ十分に食料があっても人は死んでしまう。内閣府が5月16日に発表した「自殺対策に関する意識調査」でも、「本気で自殺を考えたことがある」と答えた人が19.1%いたという。今の日本でこれだけの人たちが食い詰めて死を思ったとは考えにくい。きっと食料以外に何か、生きるために必要なものが不足しているんだろう。そして、実際に年間3万人以上の人が自殺している。

もちろん、中には仕事がうまくいかなくて死ぬ人もいる。けれども、その人が思う「食っていけない」状態はたぶん本当の飢餓状態ではない。少なくともこの日本でなら路上生活者になっても生きるつもりさえあれば案外に生きられるはずだ。食料はあり余っている。けれども、食えるならゴミ漁りでも残飯処理でも全然平気、という人は少ない。そしてコンビニの廃棄弁当を拾って生きるくらいなら死んだ方がマシだと思う。仕事が純粋に食べていくためだけのものだというなら、残飯収集や物乞いだって立派な仕事である。実際野良猫やなんかはそうしている。

およそ、食料以外に必要な生きる糧はふたつある。内面的には「生き甲斐」で対外的には「プライド」だ。いかに美味い残飯を集めるかに生き甲斐を感じ、その成果を誇れるメンタリティの持ち主であれば、住所不定の無職でも路上生活者として十分健全に生きていける。日本はまだその程度には豊かである。ところが、多くの人は他人の哀れみに縋ったりゴミ箱を漁ったりして生きることに生き甲斐を感じることはできない。それどころか酷く自尊心を傷付けられ、場合によっては生きる意欲をなくしてしまう。目の前に食べ物があっても生きられないのである。

実際に「生きられない」と思う閾値は人それぞれだ。年収2,000万が1,000万になったと悲観して死んでしまう人もいれば、愛妻を親友に寝取られて死んでしまう人もいるだろう。大抵の場合生き甲斐とプライドは表裏をなしている。家族が一番の生き甲斐だという人は、大抵家族が一番の誇りでもある。成り上がることが生き甲斐だという人は、その地位や実績が誇りになるだろう。それらの生き甲斐は、ほとんどの場合、誰かに認められたり、誰かに喜ばれたり、誰かを幸せにしたりすることで達成される。結果、自ずと誰かのために頑張ることになるのである。

大金持ちになるためにはそれだけたくさんの価値を生み出さなければならない。それは多くの人を喜ばせ、多くの人を幸せにすることだ。家族と幸せに暮らすためには、家族が幸せを共有できる環境を生み出さなければならない。それは家族が何に幸せを感じるのか、どんなところに幸せを見つけ合えるかを、お互いに言葉や心で感じ取り合い、必要なものを用意し合うことだ。それが生きる糧となる。それが仕事だ。少なくとも人を不幸にしたり何かを奪うことに本心から生き甲斐を感じる人はいないと思う。おまんましか手に入らない仕事は結局は人を生かさない。

この「きれいごと」を忘れない。それだけで、ぼくはずいぶんと気持ちが楽になる。

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