適当に働いて、適当に遊んで、適当に生きて死ぬ

餌を確保する烏
 
 
ぼくは本当に厭なことからは逃げることにしている。

たとえば、学生時代の就活は精神的にヤバそうだったから、逃げた。ただ、大学までやってくれた親の目もあったから就活のフリくらいはした。まあ、実際に訪問したのは 2社だけで、あとは梅田で適当に時間を潰したり、ネットで求職サイトを眺めたりしながら、そのままフリーターになった。が、バイトも同じところに3年もいれば、なにかと負担が増えてくる。週休2日、フルタイム。就職するのとなにが違うんだ。しかも、福利厚生なし。

適当にサラリーマンやってる方が快適なんじゃないのか。

バイトで貯めた金をウェブ制作系のスクールに突っ込んで、勢いで就職した。このときの就活は、切羽詰まった学生の一斉就活と違って気楽なものだった。「社会人」としてはすでにドロップアウト済みの身だ。脇の甘そうなウェブ系中小企業をネットで探して訪問1社目、あっけなく決まった。が、2年でやめた。バイトより続かなかった。理由らしい理由はない。働きたくないでござる!という精神状態になったのだから仕方がない。

とにかく「労働を換金している」という意識が強くなりすぎた。夜寝るのも、朝起きるのも、労働のため。金のため。特に過酷な職場だったとも思えないから、これはぼくの内面の問題だろう。どうも水が合わなかった。離職の不安は特になかった。いまさら踏み外すレールもない。またバイトに戻って、父親は落胆したようだった。バイト先は個人のデザイン会社で、同僚の紹介だった。まったくの好意で雇ってもらったといっていい。

ぼくはここで「適当に働く大人」のロールモデルに出会う。

「社会人」と呼ばれるような大人の常識や建前とは無縁の世界だった。そもそも、ひとりきりの会社に集団を縛るためのルールや慣習は要らない。ただ「仕事」と地続きの「日常」が、そこにはあった。職場は人を人生から隔離して仕事に縛りつけるための檻ではない。人生は「ワーク」と「ライフ」に分断されているわけではないのである。思えば当たり前のことだ。たった8ヶ月のバイト生活。得たものはあまりに大きい。

夜寝るのも、朝起きるのも、仕事をするのも、金を稼ぐのも、飯を食うのも、すべてはその人なりに生きて死ぬことの一部にすぎない。どれが主でも従でもない。というより、決めるのはその時々の自分だ。そういうことを自然に感じさせてくれる大人に出会えたことは幸運だった。もちろん、そんなことはぼくが勝手に思っているだけのことで、あそこで出会った人たちが、実際になにを思って生きているのかは知らない。

適当、いい加減、好い塩梅。畢竟、これにしくはない。

ここでいう適当は、安易な方に流される、というような意味ではない。安易に流され続ける怠惰も苦痛を甘受し続ける忍耐も、特別な嗜好がない限り楽しく生きるためには不適当だろう。たいていの場合、生きる楽しみは苦しみを伴う。その生き方が向いていれば充実となり、向いていなければただの苦しみとなる。報われる苦労はした瞬間から報われているもので、そう思えない苦労はただの苦痛だ。将来報われるべき苦労なんてない。

向き不向きを見極め、適度な負荷と、適度な充実と、適度な怠惰をオリジナルブレンドで調整し続ける。適当にやるというのはそういうことだ。ブラックに食い潰されて憤死するのも、部屋に引きこもったまま餓死するのも、本意ではない。向かないことを続けてしまわないように、定期的に自分を顧みる。自分を甘やかすことを恐れず、行動を最適化し続ける。自分を甘やかしはしても、知らず自分を騙してしまわないように気を付ける。

そうやって、ぼくはただ適当に働いて、適当に遊んで、適当に生きて死にたい。

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