「ぼくは年間500冊」「私は質の50冊」「オレは本より実体験」

本について自らのスタンスを表明する人は多い。

ぼく自身もいつかやらかしたような気がするし、わりと誰しも通る道なのかもしれない。いうこともだいたい決まっている。タイトルはその典型。顕在化するパターンにまで典型があって、まず、読書量を自慢気に発表しちゃうウッカリ者が現れる。それが100冊だろうが500冊だろうが本人にとっては「つい発表したくなっちゃうような読書量」だったのだから「へえ、凄いね」といって印象に残った本の話でも訊いてやればいいのである。が、よほど腹に据えかねるのか、今度は水を差すウッカリ者が現れる。曰く「読書は量より質だ」或いは「書を捨てよ、町へ出よう」

本をたくさん読むのは悪いことじゃない。上には上がいるとわかっていても、初めて100冊に達した年の瀬につい吹聴したくなる気持ちはよくわかる。書店に平積のミステリやラノベやビジネス書や自己啓発書、雨後の筍のごとくに湧いて出る新書など多読に向いていそうな本はいくらでもある。こういう「一般に読みやすいだろう本」ばかり読んでいるのだとしても、本人が愉しいならこれは大変に有意義な読書である。たくさん読まなきゃ得られない体験もあろう。このスタイルが性に合わない、或いは、卒業したとからといってわざわざ腐してみせるなどは無粋である。

一方、より難解な専門書、より晦渋な文学、より実践的な実用書なんかをじっくり精読する人が、「自分は質の高い読書を満喫している」と吹聴したくなる気持ちもよくわかる。難解な本を読み通すことで得られる快感というのは確実にあるし、晦渋だからこそ味わえる妙味というものもある。実践的な読書のお陰でビジネスパーソンとして成長著しい自分を発見する、というのもこのご時勢なら強力な自己承認をともなう立派な娯楽だろう。これもまた有意義な読書である。精読することでしか得られない体験もあろう。が、その意義は量の読書を否定するものではない。

それら読書派を横目に、恋愛に勤しみ、インドを旅し、山に登り、ボランティアに参加し、世界を肌身で感じている人が、「自分は机上では得られない実体験を積んできた」と吹聴したくなる気持ちもわかる。恋も旅も喜びも悲しみも、或いはありふれた人間の生や死も、頭と体とでは理解の仕方に違いがあるのは当然だ。実体験がもたらす圧倒的で明文化し難い実感に人生の真実を幻視する。これまた魅力的な娯楽であり、実に有意義である。実践でしか得られない体験もあろう。が、机上で得られる体験と町で得られる体験は、包含関係や上下関係にあるわけではない。

量の読書で充実している人と、質の読書で充実している人と、町に出て充実している人が、それぞれの充実を主張するために互いを否定しあう必要はない。隣人の承認欲求がちょっと顔を覗かせたくらいでフルボッコに叩き潰してやらずともよかろう。彼我の意義は並び立たぬものでもない。それでも叩く人がいるのは、主張の内容いかんに関わらず「叩きのめす」こと自体がひとつの娯楽だからだろう。誰かを叩くことで全能感なり自己肯定感なりを得るというのもまた、有意義な人にとっては有意義な人生の愉しみ方だろう。その人なりの人生の妙味があるに違いない。

いずれ、人生の意義、幸福といったものの多様性を否定することは、自らの可能性を狭めることでもある。

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