完璧主義という便利ないい訳

完璧というのは、そもそも「できる」人が目指すものだろう。

うまくできないことを理由にすぐに投げ出す。過去の自分や周囲の他人を顧みるに、そういうことは往々にしてある。人の絵を描くのに顔ばかり描いて投げ出してみたり、小説を書くのにプロローグばかり捏ね回した揚句に投げ出してみたり、とにかくやりきる前に理想通りにいかないといってやめてしまう。大抵の場合、いくら理想的なディテールを持った目を描けても人間は描けないままだし、いくら魅力的な冒頭の一文が捻り出せても小説は書けないままである。おそらく、これは順序がおかしいのである。ディテールの完成度なんて全体を仕上げられる人が考えることだろう。

もちろん、ディテールを積み上げて全体に至るという人もいる。たとえば、裸婦を描くときはアタリなど取らず乳首から完璧に仕上げていく…なんて芸当をやってのける。ただしこれは、全体に至るまで決して投げ出さないという人にだけ与えられた特権である。当然、向き不向きもあろう。けれども、おそらくは全体を俯瞰することから始めるよりもずっと厳しい棘の道である。大抵は、途中で投げ出すことになる。そして、ディテールで躓き続けるうちに、完璧主義は「やらない」いい訳へと変質していく。たとえば、完璧な冒頭が出てこないから小説が書けない、というように。

別に絵や小説の話をしたいわけではない。これは、生きていく上でのあらゆる「目標」に敷衍できる話じゃないかと思う。大抵の人はあらゆるディテールにおいて「理想の自分」を生きることなんてできない。大局を見失うと、10年後に家を建てるのが目標なのに、就職の面接をスマートにクリアする自信がないから働けないなんてことになる。面接なんてまぐれでも運でも何でもいい。10年後に家さえ建てば、就職すら必須とは限らない。「うまくやれない」自分を抱えて足踏みしている内に10年が過ぎる。家は建たない。面接なんてうまくやれなくても家は建てられるはずなのに。

決して、家を建てるなんて簡単だとかいいたいのではない。家を建てるのはもちろん大変だ。だからこそ、面接を完璧にこなせないといって挫けるのは違うんじゃないか、という話だ。テストで80点以上取るのが目的なら、1問2点の単語問題に全問正解するよりも、1問30点の作文問題を白紙にしないことが大切だ。単語がひとつ解らないことにいつまでも拘泥して、作文を落としては意味がない。「うまくできない」ことが一歩踏み出せない理由だというなら、一度よく考えてみるべきだろう。それを「うまくやる」ことが本当に自分のやりたいことなのか。大局を見失ってはいないか。

そして、身の丈に合わない完璧主義を「やらない」いい訳にしてはいないか。

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