仕事どころか何もかもが暇つぶし、から始まる愉しいM人生

そりゃあ極論すれば何とでもいえる、と承知で書いておく。

事務職の彼女にインタビューしてみた。~あたしの仕事は暇つぶし~

仏教は教える、生きることは苦しみだ、と。そして、生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を加えて八苦とする。実はこの中にない苦しみを現代人は生きている。暇、だ。暇は人を殺す。生きている意味を見失って死んでしまう人はいる。人間は衣食住の心配をヘッジし続け、ついに自由という名の暇を手に入れた。ぼくは仕事以外の時間にたとえば映画を観る。本を読む。ブログを書く。どれも暇つぶしだ。暇つぶしは楽しい。最近は暇つぶしに投資の真似事も始めた。これも楽しい。ときに、暇が足りないと思うほどだ。

仕事は楽しい。ときに辛い。鬱陶しい。恋愛は楽しい。ときに辛い。鬱陶しい。どちらも、なかなか思うようにならない。実は、こういうものこそ恰好の暇つぶしとなる。死ぬまで食うに困らないとしても、人は敢えて思うに任せない仕事を始めるだろう。それは必ずしもビジネスを意味しないけれど。朝、穴を掘る。夕方、埋める。死ぬまでこれをやれというのは拷問だ。簡単だからだ。あるいは、死ぬまでじっとして何もするな。これも拷問だ。妄想力だけで楽しく生きられる猛者じゃないかぎり、死んでしまう。肉体は生きていても、心は死んでしまう。

インタビューの女子事務員はもったいないことをしている。寝る以外の膨大な暇な時間をいかに楽しくつぶすか。いかに退屈という苦痛から逃れるか。それこそが人生のテーマである。楽、というのは退屈を生みやすい。楽という字が楽しいという字なのは腑に落ちない。なにしろ楽しいことは辛いことの方が多い。ただ、興味を持てば苦痛が快感に変わるだけのことだ。SMと同じだ。人生はSMなのだ。いたぶられ、いぢめられるのは辛い。けれども、特殊な嗜好と幸福な関係性が苦痛を快楽に変える。何かのジャンルでMになれたとき、それが生きる楽しみとなる。

毎日ブログを書くのも、難解な数学の問題を解くのも、高度なプログラムに頭を悩ませるのも、合わない人にはただの苦痛だ。けれども、好きな人には楽しい苦痛だ。辛いけれども楽しい。そういうものを見つけるのは案外難しい。それで楽に流れる。けれども、楽は受動的になりがちだ。受動的になると、たいていのものが退屈になる。楽しかったテレビも惰性になるとつまらない。楽しかったインターネットも惰性になるとつまらない。仕事だって同じだ。生活における仕事の時間は長い。有意義と思える使い方をすれば、人生の暇の大半を楽しくつぶせる。

もちろん、人生には意味がある、暇つぶしなどではない、という人をぼくは認める。

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