「働きたくない」から「死にたい」までの距離は結構近い

「(それ以外にやりたいことがあるから)働きたくない」というのはいい。

問題は「働きたくない(が、他にしたいこととてない)」というケースである。これは要するに「したいこと」はないが「したくないこと」だけはあるという状態を意味する。そこで「働きたくない」という希望が叶ったらどうなるんだろう。まず、最も「したくないこと」が解消されてぽっかり空いた時間に自然と幸福が満ちてきたりはしない。世界はそう都合よくできてはいない。きっと、さしてすることもない休日がそのまま引き伸ばされたような、酷く密度の薄い時間がとろとろと流れ込んでくるだけだろう。そうして、また別の「したくないこと」が浮き彫りになってくる。

いちいち断るのも面倒だけれど、「したいこと」が「日がなごろごろすること」だったり「何もしなくていい時間をぼんやり過ごすこと」だったりするのは別に構わない。それは「(それ以外にやりたいことがあるから)働きたくない」に含まれる。そういう人は1日18時間、年間6,570時間もごろごろしたりぼうっとできたりすればこの上なく幸せなはずだ。実現のために努力すればいい。けれども、多くの人は「働きたくない」とか「人と付き合いたいくない」とか「風呂に入りたくない」とか「したくないこと」だらけのくせに、その上「退屈な時間を過ごしたくない」のである。

「したくないこと」をいくら削ってもそこから「したいこと」は湧いてこない。つまり、行きつく先は「生きたくない」でしかない。死の恐怖があるうちはまだいい。けれども、死の恐怖は生の恐怖の前にあまりに無力である。たとえばいま30歳で、この先80歳まで生きる。「したくないこと」しかない人生を50年、時間にして30万時間以上も生きなければならないというのは、なかなかに壮絶である。それはお金持ちになろうと有名人になろうとさして変わらない。お金持ちにはお金持ちの、有名人には有名人の「日常」があるだけだ。「日常」は当人にとってなんら特別ではない。

実のところ、たいていの「したいこと」は「日常」の中からしか見付からない。いま見付からないなら、いまよりもすることを減らして見付かる可能性は限りなく低いだろう。暇だけつくっても無意味である。ワークライフバランスなんてものはワーク以外のライフに希望がある人のためだけに有効なスローガンなのである。そして、「働かなくていいなら○○をして暮らすつもりだ」というような明確な意思がある人は、ぐちぐちと「働きたくない」なんていわない人が多い。やりたいこともないのに「働きたくない」人と違って、むしろ、いきいきと働いているようにさえ見える。

いずれ人生というのはどんな境遇の人間にとっても「日常」であり、そこに「したくないこと」しか見出せなければ境遇如何に関わらず生きることは苦行である。逆に、「したいこと」を見出す人は境遇如何に関わらず幸せだろう。それは「生の恐怖」からひとときぼくたちを解放してくれる。そのとき「死の恐怖」は「生の恐怖」を凌駕する。だから「したくないこと」しか思い浮かばないなら、それをやめることばかり考えるのは限りなく死に向かっていることと等しい。「したいこと」がないなら何かをやめるのではなく「すべきこと」を増やすなり変えるなりする方がマシだ。

「したいこと」があるということは、即ち、そのために「すべきこと」ができるということだ。これが最も人として生きやすい状態だろう。このことは、人生の状態を便宜的に区分けしてみると分かりやすいかもしれない。「01.したいことのためにすべきことがある人生」「02.したくはないけれどすべきことがある人生」「03.したいこともすべきこともない人生」の3つの状態を考えてみる。この時、02の人が03に向かうくらい虚しいことはない、とぼくは思う。03から01に行くことは、きっと02から01に行くよりもずっと難しい。少なくとも、ぼくのような怠惰な人間にとっては。

果たして、本当に「すべきこと」がなくなったとき人は正気で愉しく生きられるんだろうか。

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comment - コメント

時間を無駄に潰す手段に事欠かない現代で、たとえ「すべきこと」がなくなったとしても、思考も感情も極限まで薄くなれば、単に生きていくことは可能でしょう。
2chやネトゲはわたしも大好きですが、あれらに依存する方はその一歩手前か既にそのいきにいるのではと思います。

りりこ氏のように聡明であれば、そこに気付き、狂気で苦しい人生と感じ自殺への途を辿るかもしれませんが、その思考に至らない人間もいるのです、世の中には…。
その、思考も感情も極めて僅かな状況を、愉しいと思い込んで生きて(生きてしまって)いる人は、確実にいると思いますよ。ソレが正気か正気でないかは知りませんが。

あと、すべきことがなくなるなんて事は、滅多なことでもない限りまずありえないので、気にするまでのことでもないと思いますけれど…。

> Anonymousさん
本当に「愉しいと思い込」めているなら、どんな状況であれ幸せなことだとぼくは思います。むしろ、何か「高次なもの」でなければいけないという思い込みは害悪だとさえ。ぼくはいまのところ死んでしまわない程度には鈍感で脳天気だから、まあ、とりあえずはさしたる支障もなく生きてます。けれども、ぼくを死から引き留めるものは何かと考えたとき、(それほど過大なものは残されていないにしても)未来への淡い期待でしかないように思います。実際、本当に「すべきこと」なんて、「このまま死んでもいいかな」という思いの前にはないも同然ではないでしょうか。「自分の身と心を生かすため」という前提を捨ててなお「すべきこと」なんて、ぼくにはちょっと思い浮かびません。まあ、このエントリーがいささか極論めいていることは認めざるを得ませんが。

03に近い人間でしたので、おもしろそうなのでこちらにコメントを残してみます。

世間知らずな自分は、リスクとリターンのバランスを甘く考え、
可能性があるなら、ある程度の大企業、もしくはそれらの一次受けぐらいの企業で
大きな仕事で携わってみたいと考えて就職活動に臨み、
ボコボコに社会の洗礼を受けて8月を迎えたのです。

仕事がしたくないのではないが、自分が選ぼうともしなかった仕事を探さなくてはならない、
そうなると気力が削がれ、どうでもよくなる・・・
そして、今の社会を見ているとほんと、自分は別にいなくなっても問題ないね、となっています。
したくないことを嫌でも考える毎日、じゃあ死ぬ?と言われれば、
それなりの教育を受けた身では易々と死ぬことは考えがたい・・・というか勇気がないし、
親が生きてる間はちょっとムリ。
そんなわけで死にたいのではなく、できるなら消えたい。それが出来ないから出来る範囲で考えついたやりたいことは安易な形での自身の死ではなく、できるだけ人に誇れる形での死。
自分がすべきことなんてホントにないと思う。幸か不幸か、
子供もいなければつきあってる異性もいない、しょっちゅうつきあいのある友人もいない、
たいして親子仲がいいというわけでもない。
そんな自分にとって、残りの人生は親に迷惑を掛けないことも含めて、
キレイサッパリ、何の憂いもなく死ぬこと、これが自分のすべき最後の事、
そんな風にも思えてしまうのですよ。
そんな考えに至りまた、それだけ?
そんなつまらん人生を送るなら今すぐ死んでもよいのでは?と思うのですね。

P.S. 気に障ったら消しといて下さい。

最近、無料ゲームのCMで「つまらなければやめればいい」というキャッチコピーがあって、正直ビックリしました。
なんていうか、飾る気ゼロのストレートすぎるその言葉に。
暇つぶしが商売になる時代なんですね…
エントリーと直接関係なくてごめんなさい。ふと思いだしたもので。

>本当に「愉しいと思い込」めているなら、どんな状況であれ幸せなことだとぼくは思います。
同意します。ただ、わたしはそう思い込んでいる当人ではないので、正気か正気でないかはわかりかねます。想像以上のモノではありませんが、内部からは正気で愉しい世界、外部から観測した場合果たして正気なのかどうか、という話です。本記事最終行への返答的な感じと受け取っていただければ…。

>「自分の身と心を生かすため」という前提
なるほど。すみませんわたしが読み違えていたようです。よく理解できました。
生存のための努力(+αの欲望)を「すべきこと」または「したいこと」と思えない人間は、もはや仏陀をも越えるように思えますので、今まで考えたこともなかったという方が、より正確かもしれませんが…。

ともかく、なんだか丁度良い刺激になりました。返答に感謝です。

> やりたいこと?強して言うなら華々しく死ぬこと。さん

仕事に限らず「自分で選ぶ」という心構えは尊いものだと思います。そして、魅力的な考えでもあります。けれども、「自由意思」みたいなものがどの程度アテになるのかというと、これは相当に疑問だとも思います。人がそれほど「自発的」に生きているとは、ぼくには思えないんですね。もちろん、「希望」や「期待」は人を生かすものなので大いに持つべきだと思いますが、逃した魚はたいてい大きく「見える」だけなんですよね。それこそ「大企業」も「大きな仕事」も、目標としてありそこに近付いているときだけ「特別」に見える。そういうものなんだと思います。そういうものすらあっという間に「日常」に吸収される…そんな世界でいかに生きるかが問題なんだとすると、それが「選ぼうとした仕事」か「選ぼうとしなかった仕事」かなんて、あまりに瑣末な問題にすぎないんじゃないかという気もします。これは、個人的な実感として。だから、ぼくの場合はその手の挫折感みたいなものは案外「死」に向かうトリガーにはなり得なかったりするんですが、それは或る種の「美しい死」や「有終の美」みたいなものへの憧れがないせいかもしれません。…って、返信が自分語りになってしまいました。ともあれ、お互いこんなつまらん人生を、いったいどうしてやりましょうかね…。何か名案でも浮かんだらこっそり教えてください。

> 想像者さん
エンターテイメントに代表されるように、暇つぶし自体はずっと商売になってきたんでしょうけれども、自ら暇つぶしであることをカミングアウトするっていうのは確かにあまりないかもしれませんね。このコピーを有料サービスで使ったならかなりの冒険ですが、無料ということならそう奇抜でもないかなとは思います。

『死にたい』でググって、こちらにたどり着きました。

びっくりしました。
なぜなら、まさに自分のこと、そのものなので…。
「03.したいこともすべきこともない人生」

やりたくないことだらけです。昔から。
やりたいこととか、将来なりたいもの、なんて全く無く生きてきました。
そろそろ限界です。

死にたいです。

考えさせられました。

いい記事でした。

とても共感できる記事でしたので、トラックバックさせていただいたのですが、何故かこちらでの表記が文字化けしてるようで…。
何しろ初心者でして、こちらから何かミスをしてしまったのかもしれません。
大変申し訳ございませんでした。
削除などしていただいて構いませんので…。

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