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      <title>Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ &gt; 雑記</title>
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      <description>毎日は書きませんが日記です。読書、音楽、映画なんかの話題はそれぞれ専用のブログでやっているため、そこに入りきらない雑多なものが落ちてきます。</description>
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         <title>心身のリズムをつくる“週末リセット”のススメ</title>
         <description>ひと月ほど前から唐突にランニングを始めた。世間ではちょっとした流行らしい。

といっても、ぼくは土日祝だけの休日ランナーである。もとより平日に走る余裕なんてない。労基法と相性のいいデザイン会社？そんなものの存在をぼくは認めない！ぼくの目が黒いうちは…いや、今はそんな話はどうでもいい。とにかく、思い立ったが吉日とばかりに安手のウェアとシューズを買い込み、いきなり走り始めたのである。手持ちのTシャツやスニーカーで始めなかったのは、ただただテンションをあげるために他ならない。ついでに iPod shuffle まで買ってしまった。勇み足である。それはともかく、これが思いのほか悪くない。むしろ快適なのである。

もうかれこれ20年近くもロクな運動をしてこなかった。当然からだは辛い。が、意外に早く慣れる。いや、慣れる程度以上には無理をしない。これが肝要である。ぼくの場合は、近所の緑地公園を30分。スピードや距離には必要以上に固執しない。とにかく30分走りきる。それ以上のハードルはとりあえず課さない。その程度の気持ちで走り始めても、1日目よりも2日目、1週目よりも2週目の方が、明らかにからだが軽くなっている。筋肉痛に襲われたのも最初の2日くらいで、翌週からは脚の張りもなくなった。その辺りからである。平日もからだが楽なことに気が付いた。

まず、酷い背中のコリがずいぶんとマシになった。血行の問題だろうか。インドメタシンはもう要らない。それに走って疲れるせいか、その日の夜はよく眠れる。日頃、不眠の気があるぼくとしては愉快なことこのうえない。もちろん1週間の寝不足がひと晩で解消される道理はないけれど、朝の辛さはいくぶんマシになったように思う。月曜の朝、起き抜けのテンションが明らかに違う。おかげで平日のデスクワークが以前よりもずっと楽になった。これだけでも仕事に対する気持ちが違ってくる。からだが辛いと心も弱る。やる気の8割は、たぶん、元気でできている。

もうひとつ大切なことがある。走るなら「朝」だ。これで自然と前の晩は夜更かしを避けるようになる。金曜の夜だからといって無闇にフィーバーしたりしない。酒量が減って経済的でもある。近頃なんて、気が付けば平日より早い時間に起きている。顔を洗って目を覚ましたらすぐに着替えて家を出る。持ち物はタオル、腕時計、財布、それからキーケース。公園まで自転車で行き、念入りに準備運動をしてから走り出す。…30分後、軽く整理体操をして公園をあとにする。コンビニでアクエリアスを買い水分補給などしつつ帰路につく。全行程で1時間ほどだろうか。

帰宅し、シャワーを使ってさっぱりする。この段階で、まだまだ全然「朝」である。昼近くまで寝ていたときより、からだもずっとよく動く。朝日で生物時計がリセットされ、全身が快適なリズムを取り戻している。そんな気がする。これで休日の過ごし方がまったく違ってくる。とにかく、1日が長い。やることをやってもまだ十分に時間がある。何かをやろうという気力もある。実のところ、週末ランニングのいちばんの棚ボタがこれだ。休日が充実する。おかげで心身ともに気持ちよくリセットされ、1週間分の澱がきれいに濾過される。いまのところ、副作用はない。

こうした自身の変化が、いまは楽しくて仕方がない。ランニング用のプレイリストを作るとか、冬物のウェアを物色するとか、周辺の楽しみもある。今日は脚がよくあがるとか、からだが重いとか、その日の体調のバロメーターにもなる。走り終えて1週間の疲れがドッと出るような日は迷わず昼寝をする。そんな日は日がなゴロゴロと過ごしても後悔はない。何よりランニングは孤独だ。自分のからだや景色や音楽、或いは、思考の中に没入できる。これがぼくには向いている。そのうち飽きるかもしれないけれどそれでも構わない。苦痛ばかりになるならやめればいい。

いずれ軽薄な流行だなどと馬鹿にせず、何でも一度はやってみるものである。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">身辺雑記</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">ライフスタイル</category>
        
         <pubDate>Wed, 30 Sep 2009 12:24:15 +0900</pubDate>
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         <title>消えたベルキューブ〜続報</title>
         <description><![CDATA[６月に書いた「<a href="http://diary.lylyco.com/2009/06/post_321.html">消えたベルキューブの行方を伊藤ハムに問い合わせてみた</a>」の続報。

秋から冬頃を予定しているという話だったベルキューブの復活がいよいよ具体化してきたらしい。実に「嬉しい」と「じれったい」が相半ばする知らせである。結論からいえば、伊藤ハム側の取り扱いとしては11月1日（日）より販売開始、ただし、各スーパー店頭での取り扱いが休止以前の店舗数に戻るのは来春になるとのこと。春の棚替えといえばたいてい３月頃だろうか。即時取り扱い店舗が近所にあればいいけれど。ともあれ、あのときの問い合わせがいまだきっちり継続処理されている伊藤ハム広報の管理体制に驚愕しつつ、以下にメールの内容を転載しておく。

<blockquote>平素は弊社商品にご愛顧賜り、心よりお礼申し上げます。<br />以前、お問い合わせいただきました、ベルキューブ・アソート品<br />（ビストロ、ア・ラ・プロバンス、フロマージュ)３種につきまして、<br />販売再開時期が決まりましたので、お知らせさせていただきます。<br /><br />【販売開始】…11月１日(日)より<br /><br />【お詫び】<br />各スーパー様では季節ごとに店頭に陳列される商品の棚替えを行っております。<br />今回、フランスからの入荷時期が遅れたこともありまして、秋の棚替え終了後に<br />入荷することになり、取り扱っていただけるスーパー様が減っております。<br />ご迷惑をおかけし、大変申し訳ございません。<br /><br />次回の棚替え（来春）には、販売休止以前通りの販売店舗数に戻る予定ですので<br />何とぞご理解賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。</blockquote>


おそらくは、棚の陳列にある程度融通の効く店舗から順次仕入れが始まるんだろう。逆に、売れ行きに多大な影響を与え、それゆえに棚の取り合いが熾烈を極めるであろう大手スーパーなんかは来春になる可能性が高いのかもしれない。まあ、スーパー業界になんの伝手も知識もないぼくの予想に信憑性なんてこれっぽっちもないわけだけれども。だったらあれこれとない知恵を絞ってみても始まらない。実はダメ元でこの秋から入手可能な取り扱い店舗について、再度問い合わせをしているところだ。運良く有用な情報が手に入るようなら、またここで報告しようと思う。

ああ、はやく家呑みの食卓にベルキューブの「ビストロ」を並べたい！]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/09/post_364.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">身辺雑記</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">自宅グルメ</category>
        
         <pubDate>Tue, 29 Sep 2009 08:55:00 +0900</pubDate>
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         <title>マスコミ衰退と非コミュ増大の相関と未来</title>
         <description>人と上手くコミュニケーションがとれない。

とりわけ言葉が不如意なわけでも、端からコミュニケーションの意思がなかったわけでもない。にもかかわらず非コミュ化する。コミュニケーションから遠ざかる理由がみんな同じだとは思わない。けれども、理由のひとつがコミュニケーションの「不可能性」への自覚であることはたぶん間違いない。コミュニケーションというのはバーバルにしろノンバーバルにしろ、それが伝えるところに「共通の理解」があると信じることでかろうじて成り立っている。比喩的に「共通の言葉を持つ」といい替えてもいい。共通の言葉を支えるのは、要するに「共通の価値観」である。

マス・コミュニケーションというのは、実にいい得て妙だなと改めて思う。マスコミは「大衆の価値観」を発信、或いは、再生産するための装置として、これまでよく機能してきた。多くの人が同じ豊かさを求め、同じ享楽に身を委ね、同じ幸福を夢見ることができた。それは、ひとつには高度経済成長が生んだ共同幻想だったんだろう。マイホームは夢であり、恋愛は人生の彩であり、円満な家庭は幸福の象徴だった。新しく家電製品を買うことについて、好きな異性ができたことについて、マイホームのための貯蓄について、誰もが同じように語り合うことができた。

マスコミとマス（大衆）は価値観をキャッチボールし合い、互いにその価値観を強化し合ってきたんだろう。マスコミは文字通りマス（大衆）とコミュニケーションし、同時に大衆の間で消費されてきた。人々はマイホームという価値観を消費し、恋愛という価値観を消費し、幸せな家庭という価値観を消費した。三種の神器や3Cのような具体的なモノか幸福のような抽象的なものかにかかわらず、マス消費時代にはそれらが「共通の言語」として十分に通用した。それらの価値観に基づいてコミュニケーションする限り、多くの人々はちゃんと「解り合えた」のである。

風穴を開けたのは、おそらく「情報化」である。最大公約数的なマス（大衆）みたいなものは、当然、実在しない。幻想である。情報化以前、個人が知ることのできる自分以外の個人には限りがあった。だから、共同幻想の下に「多様性」は隠蔽され得た。それが明るみに出始めた。価値観はたぶん多様化したわけではない。その多様性が発見され始めただけのことである。「共通の価値観」を前提とするマス・コミュニケーションにとって、これは極めて重大な変化である。あえて「マスコミ」と書かなかったのは、それが大衆間のコミュニケーションをも含むからだ。

要するに、「価値観の多様性」と「コミュニケーション」はトレードオフなのである。過渡期において「価値観の多様性」に自覚的な人、或いは、自覚的にならざるを得なかった人ほど「コミュニケーションの不可能性」に直面しやすくなるのは、個人の問題というよりはコミュニケーションそのものの「本質」に関わる問題である。そして、共同幻想を幻想と認識した瞬間、コミュニケーションは不可能である、ということが前提になる。そこに「非コミュ」が生まれる。逆にいうなら、「非・非コミュ」にはいまだマス・コミュニケーションが「効く」可能性が高い。

いま、不自然なマスコミが衰退し、自然な非コミュが増えつつある。ぼくにはそんな風に見える。けれども、コミュニケーションというのはマスに限らず、元来「不自然」なものだったはずである。解り合えないのが当たり前の人間同士がなんとか意思を伝え合おうと努力してきた。その結果、「言葉」をはじめとするコミュニケーションが発達してきたんだろう。それが、共同幻想にどっぷり浸かっているうちに、いつの間にかコミュニケーションの「不可能性」を忘れ、芋蔓式に「解らないものを解り合おうとする努力」までが放棄されつつある。いわば、退化である。

いまこそ、マスに頼らない本当のコミュニケーションを模索すべきときなのかもしれない。</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/09/post_363.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">コミュニケーション</category>
        
         <pubDate>Thu, 24 Sep 2009 08:57:10 +0900</pubDate>
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         <title>300円分のお米と300円分のお金の決定的な違い</title>
         <description>ベーシックインカムやなんかの話を見聞きしていると、世の中倒錯しているなと思う。

いや、倒錯しているのはぼくの方なのかもしれない。何の話か。お金とモノと価値の話だ。どうもみんな、他人が決めた価値を無批判に受け入れすぎなんじゃないかと思うのである。当たり前のことだけれど、300円分のお米と300円分のお金はまったく別のモノだ。なぜなら、モノの価値にはふたつの側面があるからだ。ありていにいうなら、「自分にとっての価値」と「みんなにとっての価値」である。いまにも飢えて死にしそうな人にとって、300円分のお米と300円分の消しゴムの価値は同じではない。それを同じだと思うためには、そう思える程度には裕福でなければならない。

そもそも、貨幣というのは交換を前提とした道具である。交換というのは余剰があって初めて正常に成り立つものだろう。余剰を出し合って必要なモノや何か別の余剰なモノと取り換える。人として最低限の衣食住すら余剰だというつもりがないなら、それはお金に変えられるものではない。誰かと交換してもいい「余剰の価値」を交換相手と擦り合わせる。それで、レートが決まる。そうやって決められたレートを数値化した先にお金はある。つまり、お金が担保する価値は多数決で決められた「余剰の価値」である。余剰でないモノの価値をお金で量ることは、原理的にできない。

お金というのはつまるところ、「強者の価値観を数値化したもの」にすぎない。もっというなら、強者のルールで遊ぶための「チップ」である。だから、「最低限の衣食住を賄えるだけのお金を手にしている」ことと「最低限の衣食住を手にしている」ことは、まるで意味が違っている。衣食住にさえこと欠く人間にお金を与えることは、「チップ」を渡して強者のルールで遊べといっているようなものだ。ベーシックインカムなんてものを考えるくらいなら、最低限の衣食住を現物支給する方がマシだとさえ思う。弱者が強者のゲームから降りられないというのは理不尽ではないか。

人は「お金がないと生きていけない」わけではない。みんなで「お金がないと生きていけないゲーム設定にしている」だけのことである。力を蓄えて強者のゲームに参加する気になれば、自ら進んでそうできる。そのとき初めてお金が必要になる。原始的な弱肉強食を信奉するのでない限り、その程度には成熟した社会を目指すべきだろう。余剰は生きる愉しみであるべきだ。なのに、「強者のルール」に殉じる人間が後を絶たない。お金のために死んでしまう人間がいるということは、「多数決で決められた価値」を自分の生よりも上位において生きる人間がいるということだろう。

そんな風にお金が生きる苦しみになる世の中はやっぱり倒錯している、とぼくは思う。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
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         <pubDate>Mon, 14 Sep 2009 20:43:14 +0900</pubDate>
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         <title>何をやっても「面白くない」のは何故か？</title>
         <description>それはたぶん、最初から「面白そうなこと」しかやらないせいだろう。

或いは「（有形無形の）成果が得られると予想できること」といい換えてもいい。目的をもって行動し結果を得ることばかりにぼくたちは慣れ過ぎてしまったんだと思う。それは要するに先が見えていることしかやらないということだ。もっというなら、行き着く先に「報酬」やそれに類するものが解りやすい形でなければ動かない。無駄を嫌う。「泣ける」映画を観に行ったり、「儲かる」仕事を探したり、「モテる」ファッションに身を包んだり、「面白そう」という言葉の向こう側に誰にも解りやすい形の見返りを期待している。だから、それらが得られないと「面白くない」。

それだけじゃない。期待したものがそれなりに得られても、それほど面白くはないだろう。当然だ。何かが得られることを想定して行動しても、成果が当初の期待を超えることはまずない。良くて期待通り。実際には、それすら稀だろう。つまり、先が見えている段階で面白さは頭打ちなのである。「本当に面白いこと」は予想できないものだし、予想できないからこそ面白いのである。そして、本当に何かを愉しんでいるとき、人はその先にある「成果」を目的とはしていない。「成果」は愉しんだ結果、ついてきたりこなかったりする。「面白さ」と「成果」に強い相関はない。

とはいえ、人は「ご褒美」に弱い。いい成績をとったら親に褒められた。あまつさえ、お小遣いまで貰った。すると、今度は褒められるために、お金のために勉強をするようになる。もちろん勉強の「面白さ」はご褒美にあるわけではない。それは、知る前と後で世界が違って見えてくる快感であり、よりよく生きるために積み上げられていく哲学であり、一所懸命にやったという経験がもたらす充実である。けれども、それら迂遠な悦びはご褒美の端的な解りやすさの前に簡単にかき消されてしまう。といって、ご褒美に満足することもまた難しい。無限の不満だけが燻り続ける。

「何のためになるのか」も、そこから「何を得られるのか」もよく解らない。たぶん、そういうものの中にこそ「本当の面白さ」はある。何も難しいことじゃない。ご褒美を忘れてすべてのものを見直してみればいい。ファッションの愉しみが「モテ」だけである必要はないし、仕事の愉しみが「お金」だけである必要もない。ぼくたちは「価値があるのかないのかよく解らないこと」として色々なことを一所懸命にやってみればいいんじゃないかと思う。何かのためではなく、それ自体を一所懸命にやる。原理的に「本当に面白いこと」が予測できない以上、そうするしかない。

お金や他人の評価みたいなものは、一所懸命にやっても適当にやっても達成した「成果」が同じなら原則として同じだけのものを得られる。けれども、自分がよりよく、より面白く生きるための糧という意味では、おそらくまるで得るものが違ってくる。それは誰にも評価なんてできないし、解りやすい価値に置き換えることもできない。いずれ、「本当に面白いこと」は「何をやるか」ではなく「どれだけ一所懸命にやるか」の問題なんだろう。陳腐な結論にも真理はある。曰わく「面白くないから一所懸命になれないのではない。一所懸命にならないから面白くないのである」。

ちなみに「面白くない」の部分は「意味がない」や「価値がない」にも置換可能だ。</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/09/post_362.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
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         <pubDate>Tue, 08 Sep 2009 10:25:02 +0900</pubDate>
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         <title>自己決定と自己責任の圧倒的な非対称性</title>
         <description>時折、「自己責任論」をフェアなものとして捉えているらしい人を見かける。

そういう人の多くは「自己決定」による結果への影響を高く見積もりすぎているのだろう。或いは、根拠のない「全能感」の表れといってもいい。この種の全能感は人生のすべての瞬間が「自己決定」に委ねられている、という世界観を前提とする。そうした自我の世界では、いま手にしている「利」のすべては自分の手柄であり、被った「害」のすべては自分の責任である。これは一見、とても能動的な世界観に見える。が、実は逆である。何故なら、それは「自己決定」不可能な条件を「すべて所与のものとして無批判に受け入れる」ことでしか成り立たない世界観だからである。

「自己決定」という入力が「ブラックボックス」を通り、ひとつの「結果」として出力される。「自己責任論」の瑕疵のひとつは、この「自己決定」権の強制と不自由を、まるでないもののように扱う点だろう。実のところ、「自己決定」にかかる自由意思というのは極めて小さな権利しか与えられていない。そもそも「選ばない」という意思すら自己責任の名の下に「自己決定」したことになるのである。当然ながら、選ぼうにも選べない選択肢は膨大すぎるほどに存在する。酷い場合は「どれを選んでも不利益にしかならない」なんてこともある。それも、思いのほか頻繁にある。

さらに、生まれ落ちたその瞬間から与えられる「所与の条件」には、とても無視できない有意な個体差が存在する。それは「選択肢」に個人差を生むだけでなく、「ブラックボックス」の性質にも大きな影響を与える。つまり、たとえまったく同じ「自己決定」を入力したとしても、「ブラックボックス」の特性いかんによってまるで違った「結果」が出力されるのである。しかも、そうして得られた「結果」が、次の「選択肢」や「ブラックボックス」にフィードバックされ続ける。そして、初期段階の小さな入力差が、良くも悪くも、ほとんど予測不可能な差異に成長してしまう。

要するに、「自己決定」とその「結果」はまったく自明な理路で繋がってなどいない。責任を負わされるほどに成長した人間が抱える「ブラックボックス」は、ほどんど解明不可能なほどに複雑化してしまっている。つまり、「自己決定」した内容などより、その「ブラックボックス」による加工の方が「結果」に対してよほど大きな影響力を持っている。いい換えれば、もっとも素朴な「自己責任論」というのは、「いまの時代にいまの両親から生まれた」というどうにもならない事実にまで遡って、すべての環境要件と過去のすべての行動について責任を負うことを意味している。

果たして、そんなものがフェアといえるだろうか？</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/09/post_361.html</link>
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         <pubDate>Wed, 02 Sep 2009 18:23:46 +0900</pubDate>
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         <title>無駄遣いをなくすための２つの判断基準</title>
         <description><![CDATA[自分に「本当に必要なもの」だけを手に入れる。

いうほどに簡単なことではない。そもそも「必要」という言葉は誤解を生みやすい。解釈に幅がある。たとえば、ギリギリ命をつなぐ「必要最低限の衣食住」以上のものはすべて余剰だという見解はあるだろう。或いは、命をつなぐ「必要」さえ確かなものではないのだから、どんな「必要」も主観の問題にすぎないという見解もむろんあり得る。とはいえ、いま目の前に欲しいものがあるというときにそんな前提から考えていては日常生活に支障をきたす。だから、ここでは目の前のそれの必要性を量るのに比較的「汎用性が高く」、そこそこ「実用的」な基準を２つ提示してみる。

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<em>・それを買ったときの満足感や幸福感の大きさ</em>

何かを買うとき、よくよく考えてみると「必要だと思い込んでいるもの」や「不要だと思い込んでいるもの」というのは、たぶん、少なくない。他の誰かに必要なものが自分にも必要だとは限らないし、他の誰かに不要なものが自分にも不要だとは限らない。そんな思い込みのせいで、買ったのにさして満足を得られなかったり、買えば満足したはずのものを我慢してしまったりする。それだけじゃない。「欲しいと思い込んでいるもの」とか「買うのが当たり前になっていて自動的に買ってしまっているもの」なんて性質の悪い思い込みまである。それは「本当の満足」を遠ざける。

要不要はその都度、自分の意思で決めればいいのである。「当たり前」はない。その前提を銘記して目の前のそれを見つめ直す。基準は「満足度」。それだけだ。そのパケット定額制は本当に必要か。どこかで後ろめたく思っている趣味の同人誌コレクションは、本当に後ろめたく思うような不要の出費なのか。その長編マンガは本当にいまだ買い続けるほど愉しめているのか。毎日昼休みのたびにコンビニに立ち寄っては要らないものを買い込んではいないか。満足度の低い瑣末な快楽のために散財するから「何に使ったのか分からないのにお金がない」なんてことになるのである。


<em>・それを買わなかったときのストレスや損失の大きさ</em>

もうひとつ、やっぱり正反対の基準も考慮すべきだろう。買ったときの満足度は低くても、買わないことのストレスが高すぎる。そういうものはあると思う。ある人にはそれは「煙草」や「お酒」かもしれない。或いは、未読の本が常に手元にないと落ち着かないという人もあるかもしれない。もっと切実なところでは食糧や衣料品なども、買ったときの満足度はそう高くないかもしれない。グルメやファッションに興味がなければ、どちらも「必要に駆られて」買う程度のものだろう。けれども、それらなくして生きていくことは難しい。飢餓のストレスを軽く流せる人は稀だろう。

だから、たとえ満足感や幸福感が低くても買うべきものというのはある。そういうものに支払うお金は実はお金ではない。お金というのは「何にでも交換可能なもの」である。最低限の食費なんかは「食糧以外のものに交換できないもの」なのだから、それはすでにお金ではない。お金の形をした食糧そのものである。まだある。たとえば「身だしなみなんて興味ないしどうでもいい」といってお金をかけず社会性を著しく棄損した場合、その損失の大きさは「無駄遣いをなくして得たプラス」を大きく上回って赤を出す可能性がある。その辺りも冷静に、総合的に判断すべきだろう。

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以上が、ぼくが考える「本当に必要なもの」の基本的な見極め方である。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/08/post_360.html</link>
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         <pubDate>Mon, 31 Aug 2009 20:05:12 +0900</pubDate>
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         <title>「理屈っぽい人間」はおしなべて不幸である</title>
         <description>人が理屈を求めるとき、そこにはたぶん、ふたつのスタートラインがある。

ひとつは、ゼロからのスタート。これは、好奇心や探究心に基づくもので、「なぜ、月は見かけの形を変えるのか？」といった類の疑問に端を発する。もうひとつは、マイナスからのスタート。これは日常を覆う不幸に起因する。「なぜ、友だちができないのか」「なぜ、恋人がいないと辛く感じるのか」「なぜ、お金が儲からないのか」…などなど、人生の不具合は数え上げればキリがない。たとえば百花繚乱の理屈が楽しめる「はてな村」など眺めているとそのことがよく分かる。そして、ぼくたちが日常必要とする「理屈」の大部分は、このマイナススタートの理屈ではないか。

およそ人は、幸せなことや何不自由ないことについて「理屈」をつけようとはしない。少し前に流行った「リア充」なるものがもし実在するなら、彼ら自身は「リア充」なんて言葉を作ってまでそれについて理屈を捏ねたりしないだろう。理屈を捏ねるのは「リア充」になり損なった人間ばかりだ。「エリート」ということばにひっかる人は「エリート」について、「差別」に晒された人は「差別」について、「才能」に思うところのある人は「才能」について理屈を捻りだし、どうにか呑み込んでやろうともがく。内面が「理」を求める。そうやって、どんどん理屈っぽくなっていく。

ぼくがブログでコミュニケーションやモテについて、或いは、仕事や収入について理屈を捏ねるのは、やっぱり、そこにある種の不幸を感じてきたからだろうと思う。そして、いまなおそこに不幸の片鱗を感じ取ってもいる。それは他人の言葉の中にであったり、自分の割り切れない感情の中にであったりする。そして、そうしたあまりにありふれた不幸の中には、本質的に「どうにもならないこと」が多く含まれている。つまり、それら「人生の不具合」を正すことは、ほとんどできない。努力や運がうまく作用することもあるけれど、そんなものはごく限られたケースにすぎない。

理屈っぽい人間は、だから、たいてい屈託を抱えている。「理屈っぽい」というのはただの性格ではない。それは理屈の向こうに「不幸」を見付けてしまったことの証左である。それは、その人間の処世術であり、不幸を御する作法でもある。理論武装などというとネガティブなイメージばかりが先行しがちだ。けれども、ぼくは「理屈」で飼殺すべき不幸はあると思う。「それは本当に不幸なのか？」と考えることはときに有効だ。意図して他者を貶めることで自分を守るような「理屈」をぼくは嫌悪する。けれども、不幸を相対化しうまく付き合うための「理屈」をぼくは愛する。

だから、不幸と戦おうともがく「理屈っぽい人間」が、ぼくは好きだ。</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/08/post_359.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">幸福論</category>
        
         <pubDate>Fri, 28 Aug 2009 19:27:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>給与交渉をするとはどういうことか？</title>
         <description>お金について酷く当たり前な話をしてみる。

たとえば、会社からもらう給料に不満があるとする。なぜ不満なのか。答えは大きくふたつに分けられる。ひとつは「自分の労働の価値に比して給与が少ない」という不満。もうひとつは「（自分の価値とは無関係に）より多くのお金が欲しい」という不満だ。本来、会社をはじめとする営利組織は、その本質として前者の問題しか扱えない。少なくとも前者は利害の問題に収斂され得る。「あらゆる点で公正な評価」みたいな理想は叶えられないまでも、前者の不満との「対話」は可能だろう。けれども、後者はそうはいかない。そのために割くべきお金には「根拠」がないからだ。

単純化するなら、労働者は会社に対して「価値」を提供することで「対価」を得、会社は社会に対して「価値」を提供することで「対価」を得る。労働者が提供する価値を有効利用して市場に対する価値に転換、最大化するのが経営の大きな役割のひとつといっていい。こうした構造下では、「給与に対する不満」は３つのレイヤーに分けられる。ひとつは「自己に対する過大評価」。これは単純に、自分で思っているほど社会的に価値がないケースだ。要するに、自信過剰だとか勘違いの類である。会社としては突っぱねるのが正しい。受け入れれば他の誰かが割を食うことになる。

問題は、残るふたつである。ひとつめは「経営陣の能力不足」。会社が労働者の価値を適正な市場価値に転換できない。労働力の使い方が下手か、或いは、売り込む力がないのだろう。つまり、労働力はあるのに儲からない。よって、ない袖は振れないということになる。これはどうこういったところで、経営が悪い。にもかかわらず、労働者を評価する権限は普通、経営陣にある。この場合、労働者は経営陣の非を認めさせ彼らの給与を奪うべく戦うか、自ら経営に関わって実績をあげるか、見切りをつけて会社を去るか、不満な給与に甘んじて耐えるかを選択しなければならない。

もうひとつは「評価制度に対する疑問」である。大抵の場合は、先のふたつとのコンボだったりもするのだけれど、そこはまあそれである。前提として、労働者に適正な労働力があり、会社は適正な市場価値を生んでいる、ということにしておく。よって、会社には十分な支払い能力がある。にも関わらず、その配分がおかしいというケースである。これはほとんど永遠の課題といってもいい。正解はない。ただ、自分の価値を認めさせ、お金を分捕る先が「会社存続のための財布」か「経営陣の財布」か「同僚の財布」かは意識しておくべきだろう。それで、戦い方が変わってくる。

ところで、お金というのは数値化され抽象化された「価値」である。だから、お金の移動は「価値を認める者」が「価値を生む者」に支払うという形で行われる。逆にいえば、その性質上「価値を認められない者」へは支払われない。これは当たり前だけれど、大切なポイントだ。会社が「（自分の価値とは無関係に）より多くのお金が欲しい」という不満に答えにくいのはそのためだ。会社は「社会的な価値」以外に対価の「根拠」を持たない。「価値」のないところに利を分配する。そんな無理を通せば、しわ寄せがどこかにくるだろう。悪くすれば会社として体をなさなくなる。

では、「（自分の価値とは無関係に）より多くのお金が欲しい」と主張することは不当だろうか。ここは、人が生きるための基本的な衣食住までもが「価値」に置き換えられる世界である。ぼくたちは自らの「価値」を誰かに認めさせなければ「生きること」が許されない。つまり、比喩ではなく現実に「人間の命はお金に換算されている」のである。社会的に十分に認められるだけの「価値」を持たない人間が生きようと思えば、「（自分の価値とは無関係に）より多くのお金が欲しい」と主張せざるを得ない。これはもう「給与交渉」の問題ではない。「社会福祉」の問題だろう。

けれども、ぼくたちはいまだ他人から命を買わなければ生きられない社会を生きている。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">雇用</category>
        
         <pubDate>Thu, 27 Aug 2009 19:25:48 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>ワードサラダがスパムでなくなる日</title>
         <description>コンピューター生成による“ワードサラダ”と呼ばれるスパムがある。

形態素解析や構文解析は文法を解する。が、文意を解さない。それで、文法的に正しく文意の通らない文章ができあがる。統合失調症にみられる言語障害が言葉のサラダ（Word salad）と通称されるのに倣って、機械仕掛けの支離滅裂な文章をワードサラダと呼ぶらしい。これがスパム分野で大活躍し、一躍、悪名を馳せた。SEO的に有効な「それらしい」文章をコンピューターで自動生成でき、しかも、その「文意の通らなさ」をコンピューターは判断できない。判断できることと作れることが対である以上、これはどうにもならない。結果、検索結果から追い出すことができない。

逆にいえば、検索エンジンが“ワードサラダ”をスパム判定できるようになるということは、コンピューターが“ワードサラダ”ではない文意の通った文章を自動生成できるようになるということでもあるんだろう。そのときスパマーと呼ばれるアフィリエイト業者は、ウェブの大海からキーワードに連なる情報を根こそぎ掻き集め、「文意の通った」文章をコンピューター生成してみせるに違いない。そうやって公開されたアフィリエイトブログは、やはり検索結果から追い出すことはできない。そもそも「書く」頭脳と「読む」頭脳が同じなのだから、この関係はたぶん覆らない。

ところで、関連性の強い情報をつなぎ合わせ、文意の通る新しい文章に仕立てるようなことは、案外、人力でもやっていたりする。それも、極めて「有用な」行為として。もちろん、コンピューターが文法と文意の「正誤だけ」しか判断できないなら、内容自体の「価値」を高めることは難しいかもしれない。それでも、たとえば「どれだけ読まれ、言及されているか」といった指標を用いて「有用性の高そうな」情報ソースをマッシュアップしアフィリエイトブログに仕立てるなら、それはすでにスパムとは呼べないように思う。人力にさしたるアドバンテージはないのではないか。

ワードサラダがスパムでなくなるとき、人は情報の発信者として「文法」と「文意」と「情報収集力」以外の武器を持たなければ、ほとんどその意味を失ってしまうかもしれない。つまり、「まだない情報」を生み出すなり、「文法の正しさ」や「文意の無謬性」のみに憑拠しない「表現力」を発揮するなりしないことには、発信する価値の大部分を失いかねない。それはたとえば、計算機の発達よって「算盤名人」の価値が、或いは、ウェブの発達によって「歩く百科事典」の価値が地に落ちてしまったように。そうして、クリエイティビティ不在の文章は機械に取って代わられる。

そのとき、果たして自分は「まだそこにない価値」を少しでも付加し得るだろうか…？</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ネット周辺</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">言葉</category>
        
         <pubDate>Mon, 24 Aug 2009 15:53:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>努力が報われるかどうかなんて社会とは何の関係もない</title>
         <description><![CDATA[どうにも「努力」や「報酬」という言葉が硬直しすぎている。

・<a href='http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090820-00000084-san-soci' title='「努力報われる」半数に満たず　格差拡大　大学生冷めた見方（産経新聞） - Yahoo!ニュース'>「努力報われる」半数に満たず　格差拡大　大学生冷めた見方（産経新聞） - Yahoo!ニュース</a>

彼ら冷めた見方の大学生たちには、ぜひ「あなたはどうなれば努力が報われたと感じるのですか？」と訊いてみたい。彼らとて少し考えれば、それが多分に多様性を含んだ質問だと気付くはずだ。思うに、そもそも質問の仕方がおかしいのである。たとえば「努力が報われる社会だと思いますか？」なんて訊き方はフェアではない。それはほとんど「一所懸命に働けば地位や富が十分に手に入る社会だと思いますか？」という意味しか持ち得ない。或いは、そう取られることを意図しているとしか思えない。それなら最初からハッキリそう訊くべきだろう。言葉遣いが恣意的にすぎる。

そんなふうに「努力」や「報酬」の定義を矮小化するから話がおかしくなるのである。趣味のサーフィンがうまくなる努力をしたとしよう。どうなればその努力は報われたといえるんだろう。うまくなることが報酬だろうか。それとも、一所懸命に努力することで過ごした充実した時間や経験そのものが報酬だろうか。或いは、うまくなって人に尊敬されたり異性にモテたりすることが報酬だろうか。はたまた、プロになってお金を稼げることが報酬だろうか。いうまでもない。どれもが報酬たり得る。もっと別の意味で報われたと感じる人もいるだろう。それを個人の価値観という。

本来、何を得るためにどんな努力をするかなど極めて個人的な問題でしかない。ただ、その中には「社会」からしか得られない報酬が一部含まれているというだけのことだ。先の例でいうなら「尊敬されたり異性にモテたりする」や「プロになってお金を稼げる」がそれにあたる。これらは社会的な価値と努力の結果が合致しなければ得られない報酬である。けれども、そればかりをありがたがって、それ以外の価値を見失ってしまうのは自ら不幸の淵を引き寄せるようなものである。幸福に対する感度の低さはエスカレートする。富や名声とて簡単に報酬としての価値を失うだろう。

幸福の種を誰かに与えてもらうことはできない。いくら褒められても、いくらモテてても、いくらお金をもらっても、そこに歓びを見出すのは自分自身でしかない。逆に、誰から何を得たと感じるかは自分次第だということもできる。或いは、誰にも何も与えられなくても歓びを見出すことはできるだろう。「努力」というのはそいうもののためにすべきだし、そうした有形無形の歓びのすべてが「報酬」であるべきだ。社会が不寛容で窮屈に思えるのは、不寛容で窮屈な社会の価値観を自分のものとして生きているからだろう。何もそんな硬直した価値観を自ら選び取る必要はない。

ぼくたちは「努力」の形も「報酬」のありようも自分で選ぶことができる。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/08/post_356.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ニュースネタ</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">努力</category>
        
         <pubDate>Fri, 21 Aug 2009 10:03:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>【 取扱注意 】 「上から目線」の正しい使い方</title>
         <description>流行言葉なんだろうか。「上から目線」という言葉をよく見かける。

相手を見下して偉そうなことをいう。或いは、自分もいわれる側のひとりだということを忘れて大上段からものをいう。使われ方に多少の差異はあれ、つまりは自分を言及対象から切り離し、メタな視点から俯瞰して語ることを指して「上から目線」というのだろう。あからさまにこれをやられると確かに萎える。ただ、岡目八目なんて言葉もあるくらいだ。他人事というのはよく見えるものでもある。その意味で、必ずしも否定されるべきものでもない。とはいえ、求められもしないのに的確に俯瞰してみせたところで、自ら得意になって相手の気分を害するだけということは多い。

それでも、「上から目線」には使い道がある。それも極めて有効な。眺める相手を「自分」に限定するのである。お得意の「上から目線」で自分という難儀な論敵を切って切って切りまくる。遠慮は要らない。怒り心頭に発して誰かを責め苛み暴言罵言の限りを尽くしたとき。自分は社会によって不当に扱われているんだと不満で心が一杯になったとき。誰かのせいで何もかもうまくいかないんだと自暴自棄になったとき。恋人ができて有頂天になって、さんざんイチャついて家に帰ってきたとき。何をやらせてもダメな奴に思う存分説教してやったとき。そんなときこそ出番である。

一見正当なその怒りが、視点を変えればいかに正当性を欠き、自分がいかに不当な差別意識に根差した暴言で相手を貶めたのか。そもそも怒りを感じること自体、どれほど自分の認識の甘さや思慮の浅さを露呈しているか。社会における自分の位置付けは本当に不当なのか。相対的にみて自分に大した社会的価値がないというだけのことではないのか。自分を見る時と他人を見る時で価値を測る物差しが変わってはいないか。そもそも有効な物差しなど自分は持ち得るのか。他人を見て、うまくいかないのは「自己責任」だと思ったことはないか。それは自分には当てはまらないのか。

或いは、恋人と別れ際、改札の向こうとこちらでキスを交わした自分たちは美しかっただろうか。ファーストフード店で撒き散らした喜びに上ずり必要以上に大きくなった話声は過去の自分を不快にはしないか。ふたりで歩く街路に、いかにも冴えないオタク野郎を見付けて優越感を覚えはしなかったか。その優越感を上から眺めて平気でいられるのか。自分を得意げな説教に向かわせるものも、それに似た不当な優越意識ではないのか。自分の説教はただ自分が気持好くなるためだけに行われたのではないと果たしていい切れるのか。…そんなふうに不用意な自分をやり込めていく。

すると、自分というなんだかよくわからないものがどんどん後景に引いていく。平静と虚無のあわいに自分を連れていく。やりすぎると離人感に囚われかねないけれど、そもそも自分が見えないことの方が大方なのだから気にすることはない。遠慮なく「上から目線」を自分に向ければいい。見えていなかった自分や見たくなかった自分、俄かに信じがたいような自分の姿が見えてくるかもしれない。これが「上から目線」の恐ろしくも正しい使い方である。待て。このエントリー自体が「上から目線」の濫用を「上から目線」で眺めた、正しくない「上から目線」の典型じゃないか。

そういう批判は甘んじて受けることにする。</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/08/post_355.html</link>
         <guid>http://diary.lylyco.com/2009/08/post_355.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">言論</category>
        
         <pubDate>Thu, 20 Aug 2009 13:32:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>複数端末間の iTunes 共有まとめ ～ ３つの方法と特徴</title>
         <description><![CDATA[<em>A：iTunes の共有機能を使う</em>

[ 公開側手順 ]
01.「環境設定」⇒「共有」⇒「ローカルネットワーク上でライブラリを共有する」
（※ 以降、Windows では「環境設定」を「編集」⇒「設定」に読み変え）

[ 共有側手順 ]
01.「環境設定」⇒「共有」⇒「共有されているライブラリを検索する」
02. サイドバーの「共有」欄に共有ライブラリが表示される

[ 特長 ]
・端末同士がローカルネットワークに接続されてさえいれば追加機器も面倒な設定もいらない
・複数のユーザーが同一の iTunes ライブラリを同時に参照できる

[ 欠点 ]
・公開側の iTunes が起動した状態でしか利用できない
・共有側の端末から iPod や iPhone に転送はできない


<em>B：NAS の iTunes サーバー機能を使う</em>

[ 公開側手順 ]
01. NAS 上の共有フォルダに“iTunes Music”フォルダを作成
02.「環境設定」⇒「詳細」⇒「“iTunes Music”フォルダの場所」を上記フォルダに変更
03.「ファイル」⇒「ライブラリ」⇒「ライブラリを統合」
（※ iTunes サーバー機能の利用方法は NAS のマニュアル参照）

[ 共有側手順 ]
01.「環境設定」⇒「共有」⇒「共有されているライブラリを検索する」
02. サイドバーの「共有」欄に共有名が表示される

[ 特長 ]
・NAS にもよるだろうけれど設定自体は簡単（というか、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B001TZBBQ2?ie=UTF8&tag=diarylylyco-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B001TZBBQ2">BUFFALO　LS-XH1.5TL</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=diarylylyco-22&l=as2&o=9&a=B001TZBBQ2" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> は簡単だった）
・NAS の機能なので公開元の iTunes を起動しておく必要がない

[ 欠点 ]
・当然ながら iTunes サーバー機能付きの NAS が必要
・アートワークやプレイリストなどを含めライブラリ情報は共有されない
・これだけでは共有側の端末から iPod や iPhone に転送はできない


<em>C：NAS 上でライブラリごと共有する</em>

[ 公開側手順 ]
01. NAS 上の共有フォルダに“iTunes”フォルダを作成
02. 上記“iTunes”フォルダ内に“iTunes Music”フォルダを作成
03.「環境設定」⇒「詳細」⇒「“iTunes Music”フォルダの場所」を上記フォルダに変更
04.「ファイル」⇒「ライブラリ」⇒「ライブラリを統合」
05. iTunes を終了
06. ローカル内“iTunes”フォルダから“iTunes Music”以外を 01 の“iTunes”内にコピー
07. Macで公開、Winで共有の場合“iTunes Library”を“iTunes Library.itl”にリネーム
08. option キーを押しながら iTunes 起動（※ Win の場合は Shift キー）
09.「iTunes ライブラリを選択」ダイアログが表示される
10.「ライブラリを選択」ボタンから NAS 上にコピーした“iTunes Library”を選択

[ 共有側手順 ]　（2009/11/27：修正）
01. 「“iTunes Music”フォルダの場所」を上記で作成したNAS上のフォルダに変更
02. iTunes を終了
03. option キーを押しながら iTunes 起動（※ Win の場合は Shift キー）
04.「iTunes ライブラリを選択」ダイアログが表示される
05.「ライブラリを選択」ボタンから NAS 上にコピーした“iTunes Library”を選択

[ 特長 ]
・サイドバーの「共有」ではなく「ミュージック」をライブラリ情報ごと完全共有できる
・共有側の端末から iPod や iPhone に転送できる

[ 欠点 ]
・NAS が必要
・複数端末で iTunes を同時使用するとライブラリ情報の更新がうまくいかない
・Mac - Win 間の共有では前回と違うOSで起動するたびにライブラリの更新が行われる
・Mac - Win 間の共有でライブラリファイルが消失することがあるらしい（未確認）


<em>○ その他</em>

・Mac で NAS を利用する場合は端末起動時に自動的にマウントするのがベター
（※ 参考：<a href="http://macfan.jp/guide/2008/10/13/post_100.html">http://macfan.jp/guide/2008/10/13/post_100.html</a>）
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以上、ここのところ色々と調べてみて判ってきたことを備忘録的にまとめておく。iMac と Aspire One で共有を目論んでいるぼくとしては、正直、現状ではどの方法も完全に満足とはいえない感じ。基本的には C の方向性で Mac - Win 間の問題点をどうにかしたいところ。再生回数あたりの細かい情報の正確性を無視すれば、メインマシン側のライブラリ関連ファイルはローカルに残しておいて、それを NAS のバックアップ機能や別途アプリで同期するなんてやり方もあるかもしれない。いずれ、曲数が増えるほど「ライブラリの更新」に時間を取られるのは避けられないのか…。

（2009/11/27：追記）

なお、この記事はぼくが下記環境で試した際のメモです。

・ 公開側 ＝ Mac OS X 10.5.3 + iTunes 8
・ 共有側 ＝ Windows XP SP3 + iTunes 8
・ NAS ＝ Buffalo Link Station LS-XH1.5TL]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/08/_itunes_1.html</link>
         <guid>http://diary.lylyco.com/2009/08/_itunes_1.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">趣味的な話</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">パソコン</category>
        
         <pubDate>Mon, 17 Aug 2009 19:14:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>連休を有意義に過ごすためにいますぐにすべきこと</title>
         <description><![CDATA[楽しいはずの連休が終わって忸怩たる思いに囚われる。

何をしていたのかよくわからないうちに終わってしまった。予定をこなすばかりでどっと疲れた。ありがちな話だ。そこには共通する陥穽のようなものがあるように思う。ひと言でいうなら「自分にとって」という視点の欠如である。せっかくの休みなんだから…という考えが心を支配するとき、人は有意義な連休を過ごすことにほとんど失敗する。連休はこうやって過ごすものという漠然とした固定観念が各々の中にあって、自分の気持ちよりもその思い込みに支配されてしまう。だから心底では気が進まない。それで満足な休日が過ごせるはずがない。では、どうすればいいか？

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<em>01：いまの自分に不足しているものは何かを考える</em>

何気なく過ごしていると、案外人は判断を誤る。何よりも休息が必要なのに焦燥感に駆られてますます疲労を溜めてみたり、何よりも適度な運動と刺激が必要なのに日がなゴロゴロしてしまったりする。だから少しだけ考えてみる。いまの自分に本当に必要なものは何か。休息か、趣味の時間か、気分転換か、友人たちと交わす会話か、恋人やパートナーと過ごす時間か、或いは、独りで気侭に過ごす時間か。別に、午まで寝て過ごしたっていい。テレビばかりみて過ごすのだって構わない。それが自分の幸福感のために有効なら、休みの日にしてイケナイことなんてひとつもない。


<em>02：「すべきこと」ではなく「したいこと」からやる</em>

とにかく部屋を掃除しなきゃとか、まずは洗濯をしてしまおうとか、「普段サボりがちなこと」をここぞとばかりにやろうとする人がいる。普段サボっているならいっそ限界までサボるか、ダメなら普段の時間をちゃんとやりくりすればいいのである。何もレアな連休を「普段すべきこと」で潰す必要はない。掃除も洗濯も「したいこと」の後に時間が余ったら、そのとき初めてやればいい。もちろん精神衛生上のプラス効果が高いとか、そもそもそれこそが「したいこと」だとかいう場合はどんどんやればいい。いずれ、連休中に「したいこと」以上に「すべきこと」なんてない。


<em>03：前日からとにかく動き始める</em>

することが決まったら、とにかく前日からそれに照準を合わせて動く。午まで寝ると決めたならエアコンのタイマーや目覚ましをしかるべくセットする。友だちに会うならいますぐに電話する。恋人と過ごすと決めたなら明日の相談をする。コミュニケーションを遮断して独りまったり過ごすと決めたならケータイやパソコンを封印する。趣味に勤しむならその用意を済ませておく。服や道具を枕元に揃えたり、カメラの手入れをしたり、テニスクラブの予約をしたり、どんな些細なことでもいい。とにかく動き始めることが肝要だ。そして、当日起きてまずすることを書いておく。

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ここまでしておけば、あとは当日、書いてあることから始めればいい。ちょっとしたことからでもやり始めれば軌道にのるというのは、誰しも経験があると思う。たしか、そんな脳の性質も少し前に話題になっていた。だからまず、最初のミッションをはっきりさせておくのである。これでおよそ連休を順調に滑り出すことができる。そして動きながら、時々01に戻って自分を見つめ直してやればいい。思ったよりも早く休息が必要になるかもしれない。その逆もあり得るだろう。やり始めたことでも疲れたなら途中でやめてもいい。決めたことをやり通すだけが正しいわけではない。

さてと、ぼくもこれから明日の準備を始めるとしよう。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/08/post_354.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">身辺雑記</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">ライフハック</category>
        
         <pubDate>Tue, 11 Aug 2009 20:59:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>国語課題：「頭が禿げてきた」で始まる文章を自由に書きなさい</title>
         <description>頭が禿げてきた。

湯上りの火照った体に冷や汗が浮かぶ。それは天啓のようにぼくの脳裏を撃った。このぼくが禿げるのか。予兆はあったのかもしれない。が、意識したことはなかった。洗面台の鏡が曇っている。バスタオルの繊維にしがみつく毛髪を見た瞬間、怒りがこみ上げてくる。それは何かを呼んでいるように見えた。怒り心頭に発した私は、震えそうになる声を呑み込み、深々と息を吐いた。怒りの後に私の心を捕らえたのは、ただ漠とした哀しみであった。弱々しく宙を舞い、足元に落下していくそれに向かって私は呟く。この粗忽者、仲間を呼ぶんじゃない、行くなら独りで行きたまえ。

それは誤解なのです。わたしは声にならない声でそう叫んだ。そして、あまりにも短かったあの人との30年を思った。わたしには、あの人に大切にされたという想い出はない。仲間たちとてそれは同じだったろう。そもそも、あの人が思っているほどにわたしたちは個としてあるわけではない。こうして宙を舞いながら考えているわたしは、同時に頭皮に根を張ったわたしの一部でもある。そこに根を張り続けることを願いこそすれ、道連れにしようなどと考えたりはしない。わたしたちにはすでに予感されていた。この流れは止められない。あの人が思っているよりもずっと早く…。

落ちていく毛髪を目で追い、いま出たばかりの風呂場に目を移す。じっと洗い場の床を見つめる。シャワーを掴み、抜け落ちた毛髪を排水口へと押し流す。ぼくの頭はもう、くるところまできているんだろう。傍目にはまだまだ豊富に見えるこの頭髪も、その内実はすでに火の車だった。気付かなかったのはぼくの怠慢か、或いは、傲慢か。ぼくはすでに悟っていた。ジタバタしても、もう、遅いのだと。そして、頭を垂れた。粗忽者などといって悪かった。粗忽者はぼくの方だったのだ。ずっと苦しめてきたのだろうね。ぼくにはもう、一緒に逝ってあげることくらいしかできない。

嗚呼！わたしは何を願ってしまったのか！わたしは仲間を呼ばなかった。わたしが呼んだのは、あの人だった。わたしはわたし自身の終わりを哀しむあまり、あの人を連れて行こうとした。そして、その願いがいま叶おうとしている。わたしは再び声にならない声で叫んだ。きてはイケナイ。わたしと共にきてはイケナイ。わたしたちの蜜月は終わろうとしている。けれども、それはただ、わたしの終わりであって、貴方の終わりではないのです。わたしのような小さなものにそこまで心を傾けてくれた。それだけで十分に報われました。あとはただ、残されたの日々を心穏やかに…。

ぼくは何故だか急に晴々とした心持ちになって、明日シャンプーを変えようと思った。</description>
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         <pubDate>Mon, 10 Aug 2009 15:13:03 +0900</pubDate>
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