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      <title>Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ &gt; 雑記</title>
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      <description>毎日は書きませんが日記です。読書、音楽、映画なんかの話題はそれぞれ専用のブログでやっているため、そこに入りきらない雑多なものが落ちてきます。</description>
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      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>非モテ男へ贈る奇跡のアドバイス（※イケメンに限らない）</title>
         <description><![CDATA[非モテをネタにネットみのもんたごっこするのは確かに品がない。

・<a href='http://d.hatena.ne.jp/temtan/20081118/1226986439' title='的外れなアドバイスは要らないし、「イケメンに限る」って言って切り捨てられてもしょうがない - Diary of Dary'>的外れなアドバイスは要らないし、「イケメンに限る」って言って切り捨てられてもしょうがない - Diary of Dary</a>

いや、正直にいえばそれでも面白ければいいじゃん、非モテの問題なんて解決しなくてもさ、とは思う。何しろ、本当に非モテ問題を解決したくてアドバイスしている人なんて、たぶん、そうはいない。非モテのウジウジした言動にイラっとしたり、非モテのルサンチマン満載の呪詛に辟易したり、非モテを脱した自分語りがしたかったり、オサレでモテな自分をアピールしたかったり、単に注目されたいだけの釣りだったり、まあ、とにかく自分のために書いているというのが本当のところで、煎じつめればたいていの文章は自分がすっきり気持好くなるために書くものだと思う。

それはそれでいいのだけれど、じゃあ、本当に有効で非モテを動かし得るアドバイスとはどんなものか。リンク先のまとめを参考に考えてみる。まず、「対象者の問題」を解決するには対象者像をある程度明らかにする必要がある。ただし、対象者の非モテを手軽に分類してみたところでさしたる意味はない。このやり方ではキリがないからだ。最終的には「非モテはひとりひとり違う」という結論になってしまう。そこで、極力対象者の取りこぼしを少なくするために最底辺を想定する。そして、多くの非モテに共通するであろう根本的な問題を白日の下に曝け出してやればいい。

さっそく、非モテの最底辺の姿を妄想してみる。最底辺非モテの一番の問題点は非コミュをはじめとする合併症による負のスパイラルに陥っていることだろう。「誰もが認めるブサメンである」「他人とは自分を迫害する存在である」「現実の異性と接するなど想像もできい」「むしろ女は敵だ」「異性どころか対面コミュニケーション全般が決定的に不得手である」「まともな職に就けるはずもない」「そんな世界で尊厳を守るためには世界を否定するしかない」「世界と自分を繋ぐ糸は非対面コミュニケーションを可能にするインターネットくらいだ」…といったあたりだろうか。

最大公約数的にまとめると次のようになる。ブサメン（或いはそれに比肩する非モテ要素）⇒迫害・孤立（当然モテない）⇒非コミュ併発⇒オタク併発⇒貧困併発⇒（卑屈な心・姿勢・表情・喋り方・服装などの問題で）ますますブサメンに拍車⇒ますます迫害・孤立（ますますモテない）⇒ますます非コミュ⇒ますます…以下無限ループ。うん、これは酷い。正攻法は一番切りやすい場所でループを断ち切ることだろう。それにしても敵は強大だ。非モテ属性との関連性の薄さでいえば、まず貧困を脱するというのは有効に思える。ホリエモン式である。…が、ハードルが高すぎる。

これはもう、奇跡を待つよりない気がしてきた。突然、自分に惚れてくれる運命の人が現れるとか、ひと山当てて大金持ちになるとか、いきなりリア充の親友ができてどんどん自分を改革してくれるとか…。そうすればループが切れる可能性も出てくる。思えば、そもそも非モテが自分ひとりでなんとかできると考える方がどうかしている。できるものなら非モテになったりしない。いえることはひとつ。奇跡を待て。ただ、こじらせた非モテをどうにかする程度の奇跡は起こり得る。キリストが3日で蘇るレベルの奇跡ではない。宝くじで3,000円当たる程度の奇跡だと思えばいい。

ただ、宝くじは1枚だけでも買わなきゃ当たらない。それは奇跡への投資である。非モテにできる投資は何か。得意のインターネットしかないだろう。たとえば人を惹きつけるブログを書く努力をする。過度に自分を偽る必要はないけれど、ネットでまで「人を寄せ付けない」自分でいる必要はなかろう。そもそも、現実世界を否定する自分なんてキャラは、後天的に育まれた不本意な自己にすぎないはずである。そして「出会い系乙」とか「キャハハウフフ」とかいう皮肉を捨てる。ネットで人と出会う機会をルサンチマンいっぱいの上から目線で否定するのは重大な機会損失だ。

そうやって得意のネットでコミュニケーションを試みながら、友だちができるのを待つ。アルファブロガーになる必要はない。ちょっと気になるブロガーくらいを目指せばいい。そこをホームにして恐る恐る他者にコミットしていく。他者に興味を持って近づく。もちろん、ネットで友だちができるなんて奇跡だ。けれども、引き籠りのネットジャンキーにできるもっとも現実的な奇跡への投資はこれだろう。ネットの人間関係を否定するな。冷笑するな。最初からオフを前提にする必要はない。自分で変えられない自分を変えるのは他人しかない。自分の中に他人の居場所を作れ。

結論。ネットで蓋然性の高い奇跡を待て。…奇跡のアドバイスってそういう意味かよ、と。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">非モテ</category>
        
         <pubDate>Thu, 20 Nov 2008 13:26:03 +0900</pubDate>
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         <title>似非科学に限らず、騙される心を理屈で救うのは難しい</title>
         <description><![CDATA[これは一見有効な提言に見えるし、一部有効な人もいるかもしれない。

・<a href='http://www.cml-office.org/archive/1226952019176.html' title='理解しないという対応 :: Archives'>理解しないという対応 :: Archives</a>

ただ、大部分の被害者候補を改心させることはできないように思う。何故なら、似非科学商法に騙される人の多くは、似非科学に騙されているというよりは、単に欲に目が眩んで正常な判断力を失っているだけのように思えるからだ。いい古されたフレーズではあるけれど、「人は自分の信じたいものを信じる」のである。宣伝文句の似非科学を信じるのは、「痩せたいから」であり、「病気を治したいから」である。「不幸から逃れたいから」といって、霊験あらたかな100万円の壷を買うのも同じことである。詐欺師たちはそうした「心」に付け込む。理性を狂わせるのが仕事である。

だから、「理解しようと思うな、様子を見ろ」というリンク先の提言は、あまり効かないだろうとぼくは思う。それは欲に目が眩みがちな人に、とりあえず冷静になれといっているようなものだからである。真っ当な助言ではあるけれど、冷静になれといわれて冷静な判断ができるような人は、そもそもそんなトンデモ商品に飛びついたりはしない。なかなか手に入らないものが今なら手に入るかもしれない。そんな思いに突き動かされて自ら進んで騙される。そういう人たちを救う言葉として「まあ、半年から1年、落ち着いて様子を見てみろよ」というのはどうにも弱い気がする。

流行のダイエットやら、マイナスイオン家電くらいなら、まあ騙されたからといってどういうほどのこともない。実際それで、多少なりともいい気分で過ごせたり、みんなでワイワイ話題に乗って楽しめたなら元は取れているともいえる。けれども、「不治の病を治す水」やら「幸福の壷」は詐欺として悪質である。付け入る場所が酷い。藁をも縋る人間の「信じたい心」ほど籠絡しやすいものはない。医者も見放した末期癌が治るかもしれないと思えば、どんな胡散臭い藁にでもすがるのが人情というものだろう。そして、それを諭す言葉としても「様子を見ろ」はあまりに無力だ。

正しい「理屈」を以て、真に救うべき人をこの手の詐欺から救うことは極めて困難だろう。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
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         <pubDate>Wed, 19 Nov 2008 21:26:29 +0900</pubDate>
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         <title>はてなブックマークはコミュニケーションではない</title>
         <description><![CDATA[リアクションとコミュニケーションを混同してはいけない。

・<a href='http://anond.hatelabo.jp/20081119045541' title='一部のブックマーカーが理解できない'>一部のブックマーカーが理解できない</a>

互いに理解を求め合う。それはコミュニケーションが担う役割だろう。つまり、リンク先の匿名氏はブックマーカーとコミュニケーションしているつもりだったのに果たせなかった。そういうことになる。これは当然だろう。ブックマークはコミュニケーションではない。そこが簡易コミュニケーションの場に見えるのは、おそらくそう思い込まされているからだ。はてなブックマークが提供しているのは、いわば「リアクションの可視化」サービスである。コミュニケーションを騙るのはマーケティング的に有効だからにすぎない。それは多くのWebサービスに共通した戦略でもある。

ブックマークが可視化したものは、テレビに向かって突っ込む視聴者の声みたいなものである。それを番組制作者や出演者とのコミュニケーションだといい張る人は少ないと思う。そうした声をどこかに集めてみんなに見えるようにした。それがはてなブックマークのしたことである。決して、番組制作者や出演者とのコミュニケーションの場を作ったわけではない。もちろん、そうした視聴者の声は、制作者や出演者に影響を与えるかもしれない。が、そんなものはコミュニケーションとは呼べない。まあ、呼ぶのは自由だけれど、ずいぶんと一方的なコミュニケーションである。

コミュニケーションというのは、そもそも理解し合えない他者同士がどうにか相互理解を図ろうとする絶望的な行為である。その絶望的な行為を通じて、極めて限定的に、或いは、思い込みの下に互いを了解し合う。テレビに突っ込むようなコミュニケーションでは、そんな限定的な相互理解すら得ることは困難だろう。そこには、自分しかいないのだから当然だ。もちろん、ただのリアクションもコミュニケーションたり得る。ただしそれはコミュニケーションの極々小さな一手段としてあり得るだけで、リアクションのみで成り立つコミュニケーションに豊穣を求めることは難しい。

これは要するに心構えの問題である。テレビに出ている麻生太郎に向かって「死ねばいいのに」と呪詛を浴びせることと、実際に麻生太郎に向かって不満を訴え話し合うことが同じコミュニケーションであるはずがない。前者が悪で後者が善だとかいっているのではない。これらはまったく別の行為だといっているのである。当然、呪詛もあっていい。ブックマークコメントやタグも同じである。それらはただのリアクションにすぎない。コミュニケーションを意図したリアクションかどうかさえ分からない。ネガコメやネガタグはテレビに向かって呟く呪詛みたいなものである。

その意味で「死ねばいいのに」はギャグだという説明にもさしたる意味はない。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2008/11/post_219.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ネット周辺</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">はてな</category>
        
         <pubDate>Wed, 19 Nov 2008 14:13:42 +0900</pubDate>
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         <title>難しいことを誰にでも解る言葉で伝える</title>
         <description><![CDATA[これは文章に対する感覚として、とても共感しやすい話だと思う。

・<a href='http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20081118/p1' title='ブログを書くときの意識 - タケルンバ卿日記'>ブログを書くときの意識 - タケルンバ卿日記</a>

個人のスタイルの話でもあり、特に異論を唱えるような内容でもない。ただ、中に気になる一文がある。「理想は『高度な内容を、誰にでもわかるように』。」というそれだ。この理想、割りとよく目にする。いい回しに異同はあれ、似たようなことをいう人は多い。別に上げ足を取ろうというのではないけれど、たとえば「誰にでも」というのは理想というより夢想に近い。あえて極論をいえば、日本語で書かれた文章は日本語を解する人にしか読めない。そういう境界は、実のところ、かなり普遍的に存在する。あらゆる文章は、望むと望まざるとに関わらず読者を選ぶのである。

当然といえば、当然の話である。そして、逆にいえば、書き手は伝えたい相手に伝わる言葉を選ばなければならない。英語しか解さない相手には英語で伝える。小学生相手ならその学習レベルに合わせた言葉で語る。インターネットについて書くにしても、相手が業界人か、ネットジャンキーか、メールすら不如意なビギナーかによって表現はまったく違ってくる。ここで注意すべきは、ビギナーにも解るように書くことは、必ずしも読者層の拡大に貢献しないということだ。大抵の場合ビギナー向けに書かれたものは、熟練のネットジャンキーや業界人を読者層から排除してしまう。

言葉や知識というのは、先人の知恵の積み重ねだ。その積み重ねを前提にすることで、初めて「高度な内容」を語ることが可能になる。ぼくは「高度なことを分かりやすく書いた本」の代表としてブルーバックスを読んだりする。初歩の科学的教養すら覚束ないぼくには、これくらいが理解の限界だと思うからだ。にも関わらず、相対論の本など読んでも十全に理解できたようには思えない。そもそも、それは相対論のすべてを伝えてもいないはずだ。相対論を小学生にも解るように書くことは不可能ではないかもしれない。ただ、それが理想的な相対論の本になるとは考えにくい。

その意味で、ぼくは「難しいことを誰にでも解る言葉で伝える」ことを理想とは考えない。せいぜい、「伝えたい相手に伝わりそうな言葉で語る」よう心がけるくらいのものだ。そして、漠然とこのブログは20代以上くらいを相手に、特別な専門知識の要らないレベルで話ができればいいな、くらいに思って書いている。はてな界隈の話題に割り込むときは、はてな独自と思われる語彙を使ったりもする。そういうときは、読者を篩にかけてしまうことも已むなしと思っている。そうした語彙でしか伝えられない言説はあると考えているからだ。伝えたいのは決して文意だけではない。

そして、伝えたいことを伝えるために解りやすさを犠牲にすることはあり得るとぼくは思う。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2008/11/post_218.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
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         <pubDate>Tue, 18 Nov 2008 14:11:45 +0900</pubDate>
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         <title>レベルダウン講座「科学と非科学、或いは、信仰と詐欺」</title>
         <description><![CDATA[あなたは急激な腹痛に見舞われた。

<em>1.科学</em>

ふむ、少々胃腸の動きが活発になりすぎているようですね。まあ、大したことはありませんが、念のため薬を出しておきしょう。これはブスコパンといって、平滑筋という筋肉の収縮を抑える薬です。実際には、直接筋肉に作用するというわけではありません。平滑筋の収縮は、副交感神経から分泌されるアセチルコリンが、平滑筋にあるムスカリン受容体と結合することで起こります。ブスコパンにはその結合を妨げる作用があるんですね。いわば、脳の命令を遮断するわけです。効きすぎると便秘になったりもするので、服用は症状が酷いときだけにしてください。

<em>2.宗教</em>

むむ、この痛がりようは…そなた、大食の罪を犯したか。体内につまらぬ悪霊が跋扈しておるわ。さしたる力もない小者ゆえ、放っておいてもその内に消え失せるであろうが、念のため霊薬を煎じてやろう。これはかの霊山で採れるベラドンナという薬草でな、信仰篤い者が飲めば神に邂逅することもあるといわれておる。しかしまた一方で、邪悪な心に支配された者は、悪魔の目に睨まれ気が触れるともいわれる。心配は要らぬ。我ら神官に伝わる煎じ薬はベラドンナの力を聖水でコントロールし体内に巣食った小悪霊を退散するもの。間違って神や悪魔に会うことはない。

<em>3.疑似科学</em>

この腹痛は体内のイオンが極端にプラスに偏ることによって生じたものです。正しいバランスに戻してやれば痛みも取れるでしょう。このサガリクスはわたくしどもがチベットの高山で発見し、研究、栽培している菌類で、清浄な地質と水質に恵まれた土地でしか採取できません。サガリクスは胃液によって数種類の良質な蛋白質とサガリキナーゼという独自成分に分解されます。このサガリキナーゼがトリプシンなどの酵素と反応し、体内に必要な量のマイナスイオンを発生させることが、最近の研究でわかってきています。天然成分なので副作用の心配もありません。

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さて、腹痛について何の知識も持たないあなたは、どれを信じるべきか。これは、案外難しい問題である。3つの例がすべて、それぞれの経験知や伝承による処方だった場合、腹痛治癒の再現性はそれほど変わらないかもしれない。もっといえば、これら3つの「薬」が結果的にまったく同じメカニズムで腹痛を抑えるという可能性も十分にある。つまり、説明体系が異なるだけで、実はまったく同じ治療を行っているという可能性である。そして、そのメカニズムの真実が「科学」にあるか「宗教」にあるか「疑似科学」にあるか判断することは、実は相当に困難である。

もしも「科学だから」という理由で1を妄信するというなら、それは2や3を妄信する態度と大差ない。実は、科学的な態度とは1を信じることではない。1と2と3を平等に検証しようと試みる態度こそ科学的というべきだ。そして、偽科学詐欺は科学を妄信する科学信仰と無知を利用する。それは説明が「非科学的だから」詐欺なのではない。ぼくは、薬が「効く」限りにおいては、1も2も3も同程度に信用していいと思う。逆に、効かない薬を効かないと知りながら効くと偽って売りつけるなら、1も2も3も詐欺だろうと思う。だから、精神科医が偽薬を出すのは詐欺ではない。

いずれ、科学とて森羅万象を説明しようとする未熟な試みのひとつにすぎない。


【関連して読んだページ】
・<a href='http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081115/1226722771' title='科学とニセ科学の違いってそんなに重要か？ - よそ行きの妄想'>科学とニセ科学の違いってそんなに重要か？ - よそ行きの妄想</a>
・<a href='http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081117/1226895072' title='宗教と科学と疑似科学とニセ科学について - よそ行きの妄想'>宗教と科学と疑似科学とニセ科学について - よそ行きの妄想</a>
・<a href='http://d.hatena.ne.jp/Lhankor_Mhy/20081115/1226752047' title='科学とニセ科学と宗教 - 不動産屋のラノベ読み'>科学とニセ科学と宗教 - 不動産屋のラノベ読み</a>
・<a href='http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20081117/p2' title='似非科学なんかどーでもええっちゅーに - 消毒しましょ!'>似非科学なんかどーでもええっちゅーに - 消毒しましょ!</a>]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2008/11/post_217.html</link>
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         <pubDate>Tue, 18 Nov 2008 03:15:27 +0900</pubDate>
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         <title>その「すごい物」を生み出したのは本当に「才能」か？</title>
         <description><![CDATA[とりあえず「すごい物」を「自分には実現できない物」と定義してみる。

・<a href='http://anond.hatelabo.jp/20081117033650' title='すごい物を見てもへこたれない人'>すごい物を見てもへこたれない人</a>

それなら、リンク先の匿名氏のいい分は尤もだ。頑張って頑張って頑張って頑張って100メートルを11秒フラットで走れるようになった。どう考えてもこれ以上秒単位で記録を更新できる気がしない。ある日、友人がやってきていう。100メートルを6秒台で走る化け物がこの町に3人も現れた。我々の時代は終わったよ、と。もうモチベーションがあがる余地なんてない。けれども、普段生きていて見聞きする他人の凄さは、実情の分からない凄さであることも少なくない。ぼくは小学生の頃、スクリーントーンを知らなかった。必死に手描きで模写しながら漫画家は凄いと感嘆していた。

技術や道具が多様になり複雑になると、ますますその傾向は大きくなる。たとえば、プログラマーでない人に凄いプログラムを判別することはなかなかできない。逆に、少し勉強すれば実現できるようなものでも「すごい物」に見えることはある。つまり、「自分には実現できない物」だと勝手に決めつけてしまう。そういうことは、結構ある。「努力できることが才能」という言葉は確かに一理あるけれど、あまり拡大解釈しすぎるのは良くない。「ちょっと調べればできることを調べられること」まで才能ということになってしまう。それだって「努力」には違いないからである。

そうした無知の壁とでもいうべきものを取り払う。それだけでも世界の見通しはずいぶんと良くなる。幸い、ぼくたちにはインターネットがある。基礎的な知識や技術の上に積み重ねる情報には恵まれている。もし基礎的な知識や技術すら習得する気がないなら、そもそも「凹む」必要なんてない。それが、あなたの目指したいものであるはずがないからだ。ともあれ、知り、試すことで、「すごい物」が「目指せる目標」になる可能性は、多分にある。あとは、やるかやらないか、やりたいかやりたくないか、といった辺りの問題だろう。そういう気持ちまで才能とは呼びたくない。

それでも残る凄さはある。「脳や身体の異常発達など先天的な能力に由来する凄さ」や「発想力や創造力の凄さ」といったものは、ちょっとなんとかしようと思って身に着く凄さではない。運にも大きく左右されるだろう。時代に愛される才能というようなものもあるはずだ。才能とタイミングは密接な関係にあるとぼくは思っている。現代なら稀代のギタリストになり得る才能を持った江戸時代人はいたかもしれない。そうした運をも味方につけ、常人の理解を超えて頭角を現す人というのはいる。天才といってもいい。それは、けれども、目指すべき凄さではないだろうと思う。

問題は「気の遠くなるような時間や労力の積み重ねで得られる凄さ」かもしれない。たとえば、カンバスに思い通りの直線を引く訓練を毎日5時間5年間続ける。たとえば、目にしたあらゆるものの形を正確に写し取る訓練を死ぬまで続ける。たとえば、頭に思い描いた色を無意識レベルで筆先が作り出してしまうくらい彩色技術に精通する。そうして得られた技術は確かに「すごい物」だと思う。けれども、「自分には実現できない物」という定義には、必ずしも当てはまらない。これがいわゆる「努力できる才能」だと思う。ここで「凹む」だけの人はやっぱり才能がないんだと思う。

いずれ何かを目指すなら、その凄さを支えるものが何かをまず知るべきだろう。その何かをすべて「才能」とひと括りにして諦めるのは怠慢だ。怠慢がいけないというのではない。自分には才能がないと愚痴るのも勝手である。ただ、無自覚にやっているなら、気持を改めてみるのも悪くはないと思う。「すごい物」を見たなら、その凄さを知る努力をする。それで自分がすべき「適切な努力」が見えてくるかもしれない。効果的に努力するためには、まず努力の仕方を見極めるべきだ。対象を知らずして「正しい努力」はなかなかできない。敵を知り、己を知ればなんとやら、だ。

まあ、こんなことをなんら頭角を現していないぼくが書いても説得力はないだろうけれど。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
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         <pubDate>Mon, 17 Nov 2008 20:25:48 +0900</pubDate>
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         <title>見合い、そして、早春の出会い</title>
         <description><![CDATA[ハードディスクが厭な音を立てている。こいつももう長くはないのだろう。当然、買い替える余裕などない。30代も半ばに差し掛かって定職にも就かず、下世話な雑誌の埋め草記事など書いて糊口を凌いでいる。フリーライターを気取ってはいるが、父が遺したこの家と継母のお陰でどうにか生きているにすぎない。父はぼくが30になった年に死んだ。癌が発覚し入院したと思ったら間もなく死んでしまった。突然、23インチのディスプレイが暗転した。コンセントを蹴とばしたらしい。黒い画面に貧相な顔が映っている。もうずいぶんと長い間、人と仕事以外の話をした記憶がない。

机の下に潜り込みコンセントを挿し直す。無数に絡まるケーブルの塊から埃が舞いあがる。喉がいがらっぽい。実の母がいなくなったのは、5歳の初夏だった。幼稚園バスがいつもの場所に着いたとき、出迎えの親たちの中に母の顔はなかった。近所の子のお母さんが家の前まで一緒に帰ってくれたが、歩いている間中、ぼくは生まれて初めて感じる圧倒的な不安に押し潰されそうになっていた。そして、母は二度とぼくの前に姿を現さなかった。継母が来たのは、それから2年後、ぼくが小学校に上がった年だった。以来、ぼくたちはまずまずうまくやってきた。継母は良い母だと思う。

父が死に、継母は旧姓に戻った。彼女にいい歳をした継子の面倒を見る義理はない。にもかかわらず、社会不適応で引き籠り気味のぼくをいつも心配し、身の回りの世話を焼いてくれている。ある日、年々むさ苦しく歳をとっていくぼくを見かねたのか、彼女はどこからか見合い写真を手に入れてきた。こんな収入も安定していない男と見合おうというのだから、よほどの余りモノに違いない。そんなロクでもないことを思いながら写真を見た。普通だった。会って、話して、断った。外見以外に見るべきところが分からなかった。その後も見合い話は持ち込まれ、すべて立ち消えた。

会ってしまうから、外見に気を取られすぎるのかもしれないわね。継母はそういって、ある日、写真のない身上書を持ってきた。履歴らしい履歴さえない。ただ、人柄が伺えるような近況や趣味の話が綺麗な字で丁寧に書かれていた。そして、メールアドレスとブログのURIが印刷された、桜色のカードが一枚、挟まれていた。ぼくたちは、インターネットを通じてお互いを知り合っていった。不甲斐ないぼくをときに励まし、季節の変わり目には体調を気遣ってくれる。他愛ないやりとりの中に、ぼくは安らぎを感じ始めていた。そして六ヶ月目、ぼくたちは携帯番号を教え合った。

あの人と会ってみる。そういったとき、継母は、そう、うまくいくといいわね、と簡単に答えただけだった。何気ない風を装ってはいたが、視線が泳いでいることにぼくは気付いていた。やっぱり心配なんだろう。大丈夫、もう、外見だけに気を取られたりしないから。約束の日、ぼくは特に構えた服を着るでもなく、あまり上等とはいえない身なりで家を出た。お互い普段通りで。それがあの人からの提案だった。鵜呑みにしていい。そういう確信が、ぼくにはあった。これが恋心かと問われて即答はできない。そういう心の高揚とは違っているようにも思う。ただ、会いたかった。

寒の戻りに首をすぼめて歩く。高級ブランドショップのショーウインドウに映ったぼくは、いつも以上に猫背で、茫洋として、パッとしない雰囲気を全身に纏わりつかせていた。意識して背筋を伸ばす。携帯電話が振動し、着信を知らせていた。今、お店に着きました。一番奥のテーブル席で待っています。電話を切り時間を確かめる。約束の時間まで三十分。ここからなら十分足らずで着くはずだ。それでもつい、足早になる。店の前に立ち、店名を確認する。年季の入った木造の珈琲店だった。旨い深入り珈琲を飲ませるのだという。ぼくは軽く息をつくと重い扉を押し開けた。

薄暗い店内に客はまばらだった。店のイメージを裏切るように、若者向けの流行歌が小さな音で流されている。ぼくはまっすぐに、奥へ向かった。静かに話し込んでいたらしいふたりの女性が、ぼくに気付いて立ち上がる。ああ、あれは…。ひとりは、ぼくのよく知っている人だった。もうひとりは、そう、多分、そういうことなんだろう。その人は少し困ったように眉根を寄せ、それでも嬉しそうに口元を綻ばせていた。ぼくは意外にも落ち着いていた。予想していたといえば嘘になるだろう。継母がその人を押し出しながら、ぼくに紹介する。およそ三十年ぶりの再会だった。


【インスパイアされたエントリー】
・<a href='http://d.hatena.ne.jp/kokorosha/20081113/p1' title='話にオチは必要ない - ココロ社　♪ほのぼの四次元ブログ♪'>話にオチは必要ない - ココロ社　♪ほのぼの四次元ブログ♪</a>
＃例文を読んで妄想が膨らんだので。オチのある方を元ネタにアレンジ。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2008/11/post_215.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">フィクション</category>
        
         <pubDate>Fri, 14 Nov 2008 12:56:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>そもそも日本語などというモノは存在しない</title>
         <description><![CDATA[たとえ、世界に文字がアルファベットしかなくなっても日本語は亡びない。

・<a href='http://d.hatena.ne.jp/repon/20081109/p1' title='「国語」としての日本語は、滅びない。そして英語は道具として使われる。 - reponの日記　ないわ～ 404 NotFound（暫定）'>「国語」としての日本語は、滅びない。そして英語は道具として使われる。 - reponの日記　ないわ～ 404 NotFound（暫定）</a>
・<a href='http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51138060.html' title='404 Blog Not Found:日本語は誰のものか?'>404 Blog Not Found:日本語は誰のものか?</a>

何故なら、日本語を日本語と規定しているものは、文字や文法や単語なんかではないからだ。たとえ、記述される文字がカタカナだけになってもアルファベットに置き換わっても、あまつさえ、現状の英語に限りなく近い文法体系に変容したとしても、日本語は日本語であり得る。そもそも、日本語というのは酷く恣意的な言語だと思う。ぼくは英語をまるで解さないけれど、あれは比較的ロジカルな言語だろう。言語としてのルールが確固としている。『ベオウルフ』の頃から見ればそりゃあずいぶん変ったろうけれど、16世紀やそこらの英語なら今とそう変わらないのではないか。

一方、日本語の変質ぶりは異常だ。いま、漢文と呼ばれる日本語を解する人がどれくらいいるだろうか。あれは中国語ではない。たとえ出自が中国だったとしても、変体漢文なんて独自ルールに基づいて運用され始めた段階で日本語である。漢字で記述された日本語である。いや、そこまで遡らなくてもいい。たとえば名文の誉れ高い中島敦の諸作でさえ、現代人にとっては注釈抜きで十全に理解することは難しいんじゃないか。これほどに酷い言語的な断絶がありながら、それらをすべて日本語だといい張る。その根拠が、記述される文字や文法なんかにあるとは、とても思えない。

言葉は必要に応じて生まれ、変容する。つまり、日本語は日本の文化なり日本人の精神性なりが要請した言葉の集積としてそこにある。たとえ今後時代の要請によって記述文字がアルファベットになり、現代英語風の文法体系を持った言語に席巻されても、その独自性を表現するための言葉は生まれ続けるだろう。逆にいえば、日本の文化なり日本人の精神性なりが、完全に地域性を失いフラット化されてしまえば、たとえ漢字仮名混じり文で記述されていようとも日本語としての独自性は失われるだろう。そして「完全に翻訳可能」な日本語はすでに日本語である意味を持たない。

つまり、いわゆる「英語」と文法や文字や単語をある程度共有することと、日本語が亡びることはイクォールではない。日本人として表現すべきものや、表現したいという欲求がなくなるときこそ、本当に日本語の亡びるときである。そこまで極端なグローバリゼーションやフラット化を望む人がどれほどいるのかは知らない。ただ、それはもう文化的な意味では「日本人」ではなく「世界人」である。そういう「世界人」が圧倒的多数になれば、そもそも日本語みたいなものは残す必要も意味もない。ただの歴史的遺物である。そのとき「日本」には地域名以上の意味はすでにない。

畢竟、日本語に言語的実体みたいなものはない。ただ、表現する日本人がいるだけである。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2008/11/post_214.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">言葉</category>
        
         <pubDate>Thu, 13 Nov 2008 14:07:58 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>不完全なコミュニケーションという豊穣</title>
         <description>世の中には伝わることを前提に話したり書いたりする人が意外に多いらしい。

特にネットでそれは顕著に見える。他人様のブログやはてなブックマークなど眺めていると、そういう印象をたびたび受けるのである。そして、書き手の口が達者なほどその責は読み手に押し付けられるし、その逆もある。「誤読してんじゃねえ、よく読めバカ」と「分かるように書け、バカ」は、どちらも根拠のない責任の押しつけだろう。自分の文章力や読解力は決してスタンダードではない。インターネットのように不特定多数がコミュニケーションする場においてはなおさらだ。ディスコミュニケーションの原因を他者にのみ求めるのはあまりフェアな態度とはいえない。

たとえば、ある文章を一部の人はちゃんと理解しているけれど、より多くの人が誤読している場合、それは「内容が難解なため」かもしれないし「表現が高度なため」かもしれないし「説明が不十分なため」かもしれないし「文章が下手なため」かもしれない。自分の書いた文章を、自分が分かるのは当然である。けれども、他人がそれを分かるのは当然ではない。これは自戒も込めて書くのだけれど、書き手は往々にして「分からないヤツが悪い」「誤読するヤツが悪い」と思いがちである。場合によっては、読み手のリアクションを書き手が誤読して話をややこしくしたりもする。

こうした行き違いを少しでも減らしたいなら、まず、書き手はある程度読者層を具体的に想定することだろうと思う。無意識に書くと自分を基準にしてしまう。これは拙い。語彙ひとつとっても、「分かってもらうための選択」をしなくなる。そして、伝えたい層をある程度想定したなら、そこから外れる層からの不本意な反応には鷹揚な気持ちで臨むことである。読者層に一般的な高校生を想定して書いたなら、幼児からの素っ頓狂な批判や、専門家からの上目線な繰り言を浴びて必死になる必要はない。ただ、当の高校生にまったく伝わらなかったなら、それは自省すべきである。

一方で、無理解を指摘された読者が「難しいことを分かりやすく書ける人が本当に賢い人」なんてことをいったりする。ぼくはこれも乱暴なものいいだと思っている。誰にとって「分かりやすく」書くかは、書き手が選択することだからである。その対象に自分が当然入っているべきだなんて思うのはただの思い上がりである。ただし、読む自由や間違っていても反応する自由はある。心にとめるべきは、その読みや反応は決して「正しい」わけではないということだ。それは「自分なりの解釈」であって「正しい解釈」ではない。これは対象をどれほど深く理解していても同じだ。

そもそも「分かる」という言葉は幅が広い。「文意が分かる」「文章の趣旨が分かる」「その主張の社会的意義が分かる」「主張から書き手のバックグラウンドが分かる」「主張の裏に隠された真意が分かる」「そこに書かれなかった問題点が分かる」などなど、人によって理解の仕方や深度は様々だろう。場合によっては、書き手の意図を超えるかもしれない。そんなことが可能なのは、読み手は書かれたテクストを読みながら「自前で」再構築するものだからだ。これは、他人のテクストを主材料に、自分用テクストを脳内執筆しているのに近い。出来上がりは当然別物である。

その別物を見て「それは別物だ」などといってみても仕方がない。しかも、そうしたディスコミュニケーションはもう当たり前に「前提」である。ただ、その別物が生成される過程で共有された何か…それがコミュニケーションの核となる。何も共有されなければ、そのコミュニケーションは残念ながら成立しない。そして、実のところ、コミュニケーションの豊穣とは、その核を共有した上で周囲に零れ出したディスコミュニケーションにこそあるのだと思う。自分の思考がそのまま他人の脳内にコピーされるような完璧なコミュニケーションなど、思索においてはむしろ不毛だ。

ぼくたちは不完全なおかげでこうしてコミュニケーションを楽しむことができる。</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2008/11/post_213.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">コミュニケーション</category>
        
         <pubDate>Wed, 12 Nov 2008 18:16:22 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>BLを擁護するために変態や猥褻を貶めるのは本末転倒である</title>
         <description><![CDATA[偏見に満ちた事実誤認と印象操作が「酷い」という趣旨には全面的に賛同する。

・<a href='http://d.hatena.ne.jp/natsu_san/20081110/1226340474' title='BLとBL読みを貶めるのもいい加減にしてもらいたい。 - __ScrapBook of Plumber'>BLとBL読みを貶めるのもいい加減にしてもらいたい。 - __ScrapBook of Plumber</a>

ただ、この主張には看過しがたい瑕疵がある。まず「BLの主題はセックスではない」という事実をアナウンスする。そして、「BLの主題がセックスであるような言説は事実誤認、或いは、印象操作である」と主張する。ここまではいい。真っ当だ。ただ、その過程で「正しく事実を認識して欲しい」という意図を超えて、BLは「ポルノではないから」貶められる謂われはないといっているように見えてしまう。それをリンク先の書き手が意図しているとは限らない。が、結果としてそう主張していると「読めてしまう」。それだと、ポルノであれば貶められても仕方がないことになってしまう。

そうした印象は、後段の「ワイセツ」問題以降さらに顕著になる。「初っ端から『ワイセツ』呼ばわりだ。」や「人間関係と精神性が描かれていなければBL読みには受け入れられない」といった書きようは、「ワイセツ」に比べて「人間関係と精神性が描かれて」いることには価値があるといわんばかりに見える。これでは、この書き手が論破すべき偏見に満ちた世間の価値観を見事に代弁してしまっていることになる。内ゲバである。「ポルノではない」や「男性同士のセックスは変態ではない」といった単なる事実の再確認を、「だから貶めるな」という「理由」にしてしまってはイケナイ。

変態的なセックスを主に扱ったエロ漫画にだって、人間関係や精神性や同時代性や社会性や芸術性や文学性を多分に含んだ作品は存在するだろう。そのことと、それを読む人を貶めることとは何の関係もないことである。ただただ変態趣味を満足させるために超絶的変態漫画を読んでいたとしても、それを理由に貶められる謂われはない。幼い少女の手足をぶった切って腹の真ん中に開けた切り込みに性器を突っ込んでハァハァする漫画などえらく変態的だとぼくは思う。男同士がオーラルセックスやアナルセックスに励むくらいはそう変態的だとは思わない。けれども、それは人それぞれだろう。

要するに、人を貶める合理的な理由がないことと、自分の感性の域値を超えた何かに嫌悪を表明したり貶めたりする人がいることとは話が別なのである。人は合理的な理由なんてなくても、ある程度自由に自分の主張を繰り出すことができる。それも健全のうちだ。ある感性が多数を占めればそれが社会的合意として扱われることもあろう。そういう感性は図書館からBLや超絶的変態漫画を排除するかもしれない。が、それはまだ「そんな自由も認められない社会」になることを意味しない。貶められようが図書館で借りられなくなろうが、存在が認められるうちは自由に読めばいいのである。

当然「その書籍に価値があること」と「図書館に所蔵されること」にさしたる相関関係はない。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2008/11/bl.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ニュースネタ</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">社会</category>
        
         <pubDate>Tue, 11 Nov 2008 12:56:17 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>梅田望夫氏「バカ」発言の本当の問題点</title>
         <description><![CDATA[どうも、これは「はてな」レベルの問題なのか、という疑念が消えない。

・<a href='http://twitter.com/mochioumeda/status/996601415' title='Twitter / Mochio Umeda: はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコ ...'>Twitter / Mochio Umeda: はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコ ...</a>
・<a href='http://blog.livedoor.jp/kensuu/archives/50709979.html' title='梅田望夫さんの発言があまりにも問題な気がした : ロケスタ社長日記'>梅田望夫さんの発言があまりにも問題な気がした : ロケスタ社長日記</a>
・<a href='http://d.hatena.ne.jp/ululun/20081110/1226277280' title='日本語が亡びる前に、はてブが「バカ」によって亡びるかもしれません - 煩悩是道場'>日本語が亡びる前に、はてブが「バカ」によって亡びるかもしれません - 煩悩是道場</a>

身も蓋もないいい方をすれば、梅田氏の発言は「何を今さら」である。はてブにあり得る叡智と愚昧の比は、ユーザー数の増加と共にウェブ全体のそれに近似していく。そして、誰にとってもごく一部の「有意義な情報」と「大量のゴミ情報」というのがウェブのありようであり、可能性なのではなかったか。誰にとって何が「有意義」かは誰にも分からない。その前提において、淘汰されない垂れ流しの情報群は意味を持ち得た。つまり、ある特定の「賢明な」視点から見るなら、ウェブに「バカ」が溢れていることは、もう当たり前すぎるほど当たり前の話だったはずなのである。

もちろん、今回の個別的な現象だけを素直に解釈するなら、梅田氏は梅田氏の求めるレベルから見て、自らのエントリーについたコメントのレベルの低さに辟易したというだけの話である。つまり、目の前に可視化された「バカ」をつい「バカ」といってしまったわけである。ありふれた話だ。ただ、それは前段の流れに沿って考えるなら「ウェブにはバカが多すぎる」という実に古典的な愚痴をいってしまったに等しい。そのこと自体は「悪」ではない。不愉快だから「バカ」を排除しろといったわけではないから、サービス提供側の人間として最後の一線を越えたとも思わない。

ただ、これはたとえ「取締役を離れて」も梅田氏が口にすべき言葉ではなかったと思う。何故なら、多くの人が「ウェブなんていっても使えるものはごく一部だけで、ほとんどはゴミだよね」と思っている中で、たとえば「あらゆる人がアウトプット可能な素晴らしい世界」というような、ほとんど楽観的ともいうべきポジティブなウェブ理解を牽引してきた、それが梅田氏の発言者としての一面の価値だったと思うからだ。衆愚論を内包した上で、「それでも素晴らしいウェブ」というビジョンを見せてくれる。その意味で彼はエヴァンジェリストであり、時にアジテーターでもあった。

それが、この程度の「可視化されたバカ」に落胆してみせる。しかもそれは、ウェブに溢れる「バカ」の総量や質からいえば、まったく氷山の一角ともいえない程度の「バカ」である。そのくらいは余裕で織り込み済みじゃなかったのか。もしかして、その程度のバカすら可視化されていない「小ぎれいでエスタブリッシュメントなウェブ」だけを見て、これまであんな理想論を掲げてきたのか。それは、これまで梅田氏が称揚してきた「ウェブの可能性」の、骨格を揺るがしかねない疑念である。先頭に立って振り続けてきた旗に落ちた消えない染みとなってしまうかもしれない。

まあ、ぼくが梅田氏のスタンスを勝手に誤解している「バカ」である可能性は多分にあるけれど。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2008/11/post_212.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ネット周辺</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">はてな</category>
        
         <pubDate>Mon, 10 Nov 2008 19:08:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>コミュ弱者の典型的なディスコミュニケーション例</title>
         <description><![CDATA[これはネットでは、まあ、ありがちなディスコミュニケーション例だろう。

・<a href="http://anond.hatelabo.jp/20081107015939" title="可愛い子になりたかったぁあああああ">可愛い子になりたかったぁあああああ</a>
・<a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20081107015939" title="はてなブックマーク - 可愛い子になりたかったぁあああああ">はてなブックマーク - 可愛い子になりたかったぁあああああ</a>
・<a href="http://anond.hatelabo.jp/20081107224713" title="可愛い子になりてぇーという以下のエントリを書いたら">可愛い子になりてぇーという以下のエントリを書いたら</a>
・<a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20081107224713" title="はてなブックマーク - 可愛い子になりてぇーという以下のエントリを書いたら">はてなブックマーク - 可愛い子になりてぇーという以下のエントリを書いたら</a>

元エントリーの匿名氏は、別に答えや励ましを求めてひとつめのリンク先のようなことを書いたわけではないと思う。そもそも、見るからに相談の体を成していない。「可愛い子」は「お金持ち」やら「天才」やらにも置き換え可能で、テンプレとしての汎用性は高い。要するに、ただの「無いものねだり」である。まず、相談してどうにかなるものではない。おそらくは、どうにかなるなんて当人も思ってないから相談していないのである。何に一番近いかといえば愚痴である。匿名ダイアリーに書くくらいだから、何某かの反応は欲しかったんだろうとは思うけれども。

とにかく、持たざる者が持てる者の羨むべく点を書き散らかしたら、「いやいや、そんな良いことばかりじゃないよ」的な反応が返ってきた。おそらく、匿名氏だってそんなことは分かっているのである。むしろ、可愛い子に生まれれば幸せだとか単純に考えているはずがない。それは、貧乏男が「お金があったら豪邸に住んで、憧れのフェラーリを実車でコレクションして、きっと女にもモテて…」とか書いているのを見て、「金持ちも結構大変」みたいな、いわずもがななことをいっちゃうようなものだ。野暮である。そして、これらは慰めや励ましの類でもない。

こうしたエントリーとコメントの間に横たわるディスコミュニケーションの根本は、こうだ。まず「エントリーは相談ではない」、そして「コメントは回答ではない」。だから、アドバイスや励ましに類するコメントはたいてい的外れだし、それを読んでエントリーの書き手が「的外れなアドバイス（または、励まし）だ」と思うのも実は筋が違っている。それは、一見アドバイスや励ましに見えても、たいていはエントリー中の気になったフレーズに反応した結果にすぎないからだ。それぞれが自分の好きな方向にバラバラにボールを投げ合っているだけのことである。

そもそも、あそこまで普遍的で個別性を排したような元エントリーの内容に、何か実効的なアドバイスなり個別的な励ましなりが可能な道理はない。何しろ、あのエントリーの趣旨をまとめると「可愛い子になりたい」しか残らない。これにまともなアドバイスや励ましができるというならぜひ見てみたい。じゃあ、大量のブコメは何なのかというと、「可愛い子になりたいと叫ぶ自称ブスについてそれぞれ勝手に語るコーナー」である。示唆に富む内容やためになる内容が含まれる可能性もあるけれど、基本的には匿名氏への回答として書かれているわけではない。

ネットはこの手のディスコミュニケーションを抱えたまま、一方通行同士の「コミュニケーション的な何か」を増産している。もちろん本質的には、完全なコミュニケーションみたいなものこそ幻想だ。にしても、ネット上にあふれるディスコミュニケーションは正常なコミュニケーションを放棄しすぎているようにも感じる。ぼく自身、ネットの情報は流し読みが多く脊髄反射することが少なくない。ただ、ネットはそういうものだと割り切って自覚的にやっているならまだ救いはある。意を汲まない作法をリアルで、少なくとも、無意識に発動することはないからだ。

そして、コミュ弱者のコミュニケーション作法は、むしろリアルでこれに近い印象がある。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2008/11/post_211.html</link>
         <guid>http://diary.lylyco.com/2008/11/post_211.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ネット周辺</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">コミュニケーション</category>
        
         <pubDate>Sat, 08 Nov 2008 13:02:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>生まれそこなった新世代としてのオタク</title>
         <description><![CDATA[自信のアウトソースは服オタの専売でも、近年の傾向でも、たぶん、ない。

・<a href='http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20081107/p1' title='服オタが、贔屓のブランドが叩かれて必死になる理由 - シロクマの屑籠(汎適所属)'>服オタが、贔屓のブランドが叩かれて必死になる理由 - シロクマの屑籠(汎適所属)</a>

リンク先で指摘されている「自信の喪失⇒自己否定」という流れをみて、ぼくが最初に感じたのは奇妙な懐かしさだった。この手のアイデンティティクライシスの物語には見覚えがある。それはたとえば、こんな物語だ。その青年は有名一流大学を出て、有名一流企業に就職することを至上目標としていた。弛まぬ努力は実り、目標は叶う。彼にとって、「その企業にいる自分」がすべてである。自覚の有無に関わらず、だ。この場合、服オタにとっての贔屓ブランドは、学歴や所属企業に置き換えられる。しかも、時間をかけて手に入れた分、より取り返しのつかないものとして。

そういう感覚は、おそらく、その辺にごく普通にあった。価値観が多様化したといわれる現在でさえ、完全になくなったとは思えない。もちろん、同じような道を歩んだ人すべてがそうだといっているのではない。問題は、その道を全体重をかけてきた人たちだ。それこそ、自己のアイデンティティと同一化せんとばかりに。エリートである自分をアイデンティティとしてきた人にとって、エリートであることの価値を否定されることは恐怖だろう。本来、人間はより総体的な価値で語られるべきのものだと思う。けれども、エリートであるという自分以外をの本人が認めないのである。

ある属性への帰属意識が強いほど、それを否定するものに対して過剰に反応する。或いは無視する。とても自然な感情だろう。オタクかどうかとは関係ない。その対象は学校や会社ばかりでなく、家柄だったり、国だったり、宗教だったり、思想信条だったりするんだろう。そうした何ものかへの過剰な傾倒に対して、ぼくなんかは相当に前時代的なイメージを持っている。むしろ、そうした帰属意識を失くし、まるで自信を分散投資でもするかのように、より個人的な経験なり知識なりにアイデンティティを見出そうと四苦八苦してきたのが、近年のぼくたちなんじゃないだろうか。

オタクはそうした現代人の先端にある現象だ。そういう見方がされたこともあったように思う。今もあるのかもしれない。多様化した価値観の中で、旧世代の感覚ではアイデンティティの拠り所となり得なかったものへの傾倒が可能になった。そのひとつの帰結が、リンク先に例示されるような服オタなんだとすると、それは旧世代的な帰属意識のお手軽な矮小化、或いは、縮小再生産にすぎないということになる。時代の先端なんて呼べるようなものではない。おそらく、本来新世代的なものの理想として語られるべきは、「自分だけの価値」に安住できる精神性だったはずである。

その意味で、オタクという新世代の誕生は失敗に終わろうとしているのかもしれない。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2008/11/post_210.html</link>
         <guid>http://diary.lylyco.com/2008/11/post_210.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">オタク</category>
        
         <pubDate>Fri, 07 Nov 2008 19:17:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>新しい意味を見出さない分析に意味はあるのか？</title>
         <description><![CDATA[分析の面白さは、実は勝手に意味を見出す面白さなんだと思う。

・<a href='http://d.hatena.ne.jp/RPM/20081103/1225701114' title='はてなブックマーク数(○○users)は何を表しているのか - インターネットください'>はてなブックマーク数(○○users)は何を表しているのか - インターネットください</a>
・<a href='http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/RPM/20081103/1225701114' title='はてなブックマーク - はてなブックマーク数(○○users)は何を表しているのか - インターネットください'>はてなブックマーク - はてなブックマーク数(○○users)は何を表しているのか - インターネットください</a>

だから、こういう議論の展開は意外というか、興味深い。これは新たな意味を付加せず、誰かが付加した意味を根こそぎ剥ぎ取って見せた例だからだ。この方向性の行きつく先は決まっていて、ブックマークコメントにあるululun氏の「(○○users）があらわしているのは、当該エントリをブックマークしている人の数ですよ。」ということになる。つまり、当たり前である。こういう議論が成り立つのは、当たり前が当たり前じゃなくなったときだ。要するに、「たくさんブクマされるエントリーは良エントリー」というような後付けの意味が、本義のように広く誤解された状況でのみ成り立つ。

翻って、元々そんな押し付けの意味を鵜呑みにしない人間には、同意はできるけれど新味はない議論ということになってしまう。それは例えるなら<a href="http://diary.lylyco.com/2008/07/post_120.html">「セックスとは○○のようなものだ」</a>というお題に、「生殖器同士の接触行為である」と答えてしまうようなものである。まあ、間違ってはいない。大いに同意するところではある。が、それ以上のコメントはし辛い、というところが少なからずある。もちろん、リンク先のエントリーで目から鱗を落とす人はいるだろうし、それはそれで意味がある。たとえば、リテラシー的な意味で。だから、別に当該エントリーを貶そうという意図はない。

繰り返す。原理主義的な本質論が無駄というわけではない。ただ、はてブというのはそれほど複雑な代物ではない。であればこそ、議論の面白みはむしろ「はてブとは○○である」というお題に、いかに意外性があって機智に富んだ答えを見出すかにあるように思う。たとえば、「はてブのユーザー数は与党支持者含有率に比例する」とか「はてブとはカセットテープのB面のようなものである」とか「はてブのホッテントリはリア充のためにこそある」とか、まあとにかく、いままで誰も指摘しなかったであろう切り口ではてブを分析する。新しい発見はこういうところにこそ、たぶん、ある。

目から鱗を落としたら、次は新しい鱗を自作してみてはどうだろう。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2008/11/post_209.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ネット周辺</category>
        
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         <pubDate>Tue, 04 Nov 2008 13:51:18 +0900</pubDate>
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         <title>楽しみをルーティン化しない</title>
         <description>実は、自分を縛るのは快感だ。が、縛りすぎると苦しくなる。

インターネットを有効に活用している。そんな人ほど「効率化」という言葉に魅せられがちなんじゃないかと思う。そして、日常を「ルーティン化」してしまう。通勤電車では英会話の勉強。会社に着いたらまず一番簡単な仕事をひとつ片付けてからメールをチェックする。ToDoを確認し、新たに加えるものを加えたら、優先順位を付けてひとつづつ片付けていく。昼休みは外出せず軽く糖分を補給するくらいですませ、その間、脳のテンションを落とさない程度にネットでニュースやなんかをチェックする…。そんな具合に生活をコントロールするのは悪いことじゃない。

ただ、これが昂じて自分の楽しみまでルーティン化してしまってはいないか。楽しみというのは本来ルーティン化できないものだと思う。確かに、ぼくたちは忙しい。時間は有り余ってはいない。有効に使わなきゃ、いつの間にか指の隙間から零れ落ちてなくなっている。家に着いたらプライベートのメールをチェックし、RSSリーダーから気になるエントリーを拾い読みし、はてなの注目エントリーを眺め、ブログを書く。平日はせいぜいこれくらいでゲームオーバー。プライベートの時間もやることは毎日毎日同じことの繰り返し。趣味と義務の境界すら曖昧だ。

土曜日は毎週必ずデートをする。買い物、お茶、ディナー。日曜日は運動と映画の日。午前中、いつものコースをiPodと一緒に走る。帰宅して汗を流したら午後からは劇場かレンタルで映画を観る。夜、レビューをブログにアップする。空いた時間は本を読む。そんな風にして、日常のルーティン化は進行する。どんなことも、やり始めたときは楽しい。だから、ずっとやろうと思う。継続は力なんて言葉もある。けれども、過剰なルーティン化は愉しむという本来の目的を見失わせる。「月水金の晩は必ずセックス」なんて決めてことに及ぶのはときに苦痛だろう。

もし、なんだかよく分からない閉塞感に囚われたなら。もし、有意義な毎日を楽しめていない自分に気が付いたら。とりあえず、自分の楽しみまでルーティン化してしまっていないか確認してみる。デートの約束は当日すればいい。どうせ会いたくなるんだから。何をするかは会ってから決めればいい。映画は観たいときに観ればいいし、つまらなかったらレビューなんて書かなくてもいい。書きたいような映画だったなら、放っておいてもどうせ書かずにはいられない。いわんや、セックスにおいてをや、だ。別に、無理にいつもと違ったことをしろというわけじゃない。

ただ本を読むためだけに、一杯千円の珈琲を飲みに行くだけでもいいのである。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">ライフハック</category>
        
         <pubDate>Mon, 03 Nov 2008 19:26:02 +0900</pubDate>
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