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      <title>Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ &gt; 雑記</title>
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      <description>毎日は書きませんが日記です。読書、音楽、映画なんかの話題はそれぞれ専用のブログでやっているため、そこに入りきらない雑多なものが落ちてきます。</description>
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         <title>「叩き上げリア充」vs「陽の下に出てきた非コミュ」の聖戦</title>
         <description>橋下大阪市長と反ハシズム派論客の話である。

それほど熱心にウォッチしているわけではないけれど、1月27日の朝生の一件やら何やらを眺めていると、どうにも居心地の悪い思いが拭えない。原因はおそらく、ぼくが反ハシズム側に近しい心性の持ち主でありながら、議論上の態度としては橋下市長支持だからである。叩き上げのリア充たる橋下市長が、陽の下に出てきた非コミュたる香山氏、薬師院氏をフルボッコ。あの日の朝生の印象を要約するとこうなる。他の面々は、ほとんどこのふたりが作り出した負の大竜巻に巻き込まれた形で、強弁がすぎるばかりの共産党山下参議院議員含め、有意義な論陣を張れる人間はいなかった。とりあえず対話になっていたのは自民の柳本市会議員くらいだったように思う。あれでは勝負になりようがない。

市長による名指しの批判が引っかかり続けて、個人的な恐怖心や不安を社会現象に仮託し、弱者切り捨て論で共感を得ようとするも理路が定まらず、生彩を欠き続ける香山氏。やろうとしていることの是非はわからないが、市長の「やり方」がとにかく許せない、と必死の猫パンチを繰り出し続ける薬師院氏。政治がわからないことにかけては人後に落ちない自信のあるぼくでも、彼らのやり方が政治的に力を持ち得ないことくらいはわかる。どころか、反橋下派にとっては百害あってなんとやらだろう。そもそも非コミュと政治ほど相性の悪いものはない。政治というのはコミュニケーションそのものだからだ。自らの内面を覗き込みながら生きる非社会的な人間に、政治的説得力など持ちようがない。

旧態依然なシステムの再構築という「戦略」を持って挑む橋下側からすれば、政治手法や個別の政策といった「戦術」面で瑕疵を指摘されることはさしたる問題ではない。「戦術」は「戦略」のために常に修正、最適化されるべきもので、最初からすべて正しいなんてことはあり得ない。橋下市長自身も、そのことに意識的な発言を繰り返している。曰く「意見は人それぞれ」「よりよい対案があるなら出してください」。彼らの議論を政治的な論争だと思って見ている観客にとって、これほどわかりやすい図はない。橋下サイドの「戦略」そのものを否定できる反ハシズム論客は皆無で、「戦術」についてすら瑕疵を責めるのみでより最適な解を提示するに至らない。政争の士としてはポンコツである。

結局のところ、香山氏も薬師院氏も端から上がる土俵を間違えている。政治的な論争はコミュニケーションのプロフェッショナルに任せるべきだ。彼らは政治闘争になど与せず、ただ市井の声のひとつとして不安や恐怖を訴え続けていればいい。そしてその恐怖の正体を、恐怖を感じざるを得ない「弱者」としての声を、きっちりと言葉にしていくべきだろう。彼らの戦えるフィールドはそこにしかない。ぼくは彼らの恐怖心や不安には十二分に共感している。橋下的な効率化推進の潮流が、社会の「全体最適」に向かうことは想像に難くない。そのときぼくが「全体最適」の犠牲になる、取るに足りない「部分」である可能性は低くない。いざとなれば、自ら属する「部分最適」を主張したくもなろう。

それでもぼくが橋下支持なのは、「全体最適」の末に「部分」の再浮上を期待するからだ。もちろん、再浮上の前に死んでしまうリスクはある。彼を支持するとは、そういうことだ。一方、あらゆる切り捨てを許さないという主張があり得ることもわかっている。全体のために部分を見捨てざるを得ない状況が出来しても、断固として判断を保留し続けるという「正義」はあろう。自らの意志でマイノリティを殺すくらいなら、もろともに死んだ方がマシだ。そう信じるなら「弱者を殺すくらいならみんなで死を選ぶ社会」という「戦略」を掲げればいい。いずれ、反橋下派に必要なのは、陽の下で心情を吐露する非コミュなどではなく、「戦略」をもったコミュニケーションのプロたる「孔明」だろう。

とはいえ、すでに「孔明」は橋下派に与しているのかもしれない。</description>
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         <pubDate>Thu, 02 Feb 2012 14:56:05 +0900</pubDate>
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         <title>マラソンは何故42.195キロなのか？</title>
         <description>小学校低学年くらいの利発そうな少年が母親と話しているのを、聞くともなく聞いていた。

「マラソンてなんで42.195キロなん？」「ん？」「中途半端やん」「そうやねえ。なんでやと思う？」「うーん…昔は道の計り方がいまみたいにちゃんとしてへんかったから？」「それはあるかもしれへんねえ。でも、それやったらいまは42キロとか40キロとかにしたらええよねえ」「うーん」「距離の単位てキロだけとちがうから、他の国の計り方やったらちょうどなんかもしれへんねえ」「外国は計り方ちがうん？」「普通はキロやけど、イギリスとかアメリカやったらマイルっていう単位かな」「マイルやったらちょうどになる？」「うーん、それはわからへんけど」

正確ではないけれど、およそそんな内容だった。学校はもう始まっている時間だったから、病院にでもいっていたのかもしれない。会話はこの後も続いて、昔の日本にもキロじゃない単位があったとか、重さの単位も色々あるとか、そんな話をしていた。結局、母親も42.195kmの答えは知らず、「帰ったら調べてみようね」ということになっていた。別にどうという話ではないけれど、なかなかどうして、小学校低学年くらいの子供相手にこんな風に話せる大人というのは珍しいように思う。ぼくがあの少年を賢そうな子供だと思ったのも母親との会話あっての印象である。

電車や街中でよく見かけるこのくらいの年頃の親子の会話には、どうにも粗雑なものが多い。いい加減にいなしてみたり、いかにも教育してやるという態度だったり、自分のスマートホンに夢中だったりして、ちゃんと子供と向き合って話している姿というのはあまり見かけない。まあ、それだけ子育ては大変だということなのかもしれないし、時と場合によってはちゃんと話しているのかもしれない。わが子を叱る親を見て、なるほど、確かに子は親の背を見て育つんだなあと思うことは多い。ぼくには子供がないからわからないけれど、うまくやる自信はまったくない。

いずれにしても、自分の興味や知識いかんに関わらず、子供の興味に合わせて話をリードできるというのはちょっとした才能だろう。「マラソンは何故42.195kmなのか？」という疑問から発して、あの少年が学んだことは少なくない。家に帰って母親と一緒に調べるとき、また別な発見だってあるかもしれない。クダラナイと思って相手にしなければそれまでである。もちろん、子供はすぐに興味を失って忘れてしまうかもしれない。それでも、たとえ徒労に終わっても、興味や可能性を広げてやることは親が子供にしてやれる数少ない教育のひとつなんじゃないかと思う。

ちなみに42.195キロは26マイル385ヤードで、この半端にはちょっとした逸話がある。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">教育</category>
        
         <pubDate>Fri, 27 Jan 2012 12:05:31 +0900</pubDate>
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         <title>「ぼくは年間500冊」「私は質の50冊」「オレは本より実体験」</title>
         <description>本について自らのスタンスを表明する人は多い。

ぼく自身もいつかやらかしたような気がするし、わりと誰しも通る道なのかもしれない。いうこともだいたい決まっている。タイトルはその典型。顕在化するパターンにまで典型があって、まず、読書量を自慢気に発表しちゃうウッカリ者が現れる。それが100冊だろうが500冊だろうが本人にとっては「つい発表したくなっちゃうような読書量」だったのだから「へえ、凄いね」といって印象に残った本の話でも訊いてやればいいのである。が、よほど腹に据えかねるのか、今度は水を差すウッカリ者が現れる。曰く「読書は量より質だ」或いは「書を捨てよ、町へ出よう」

本をたくさん読むのは悪いことじゃない。上には上がいるとわかっていても、初めて100冊に達した年の瀬につい吹聴したくなる気持ちはよくわかる。書店に平積のミステリやラノベやビジネス書や自己啓発書、雨後の筍のごとくに湧いて出る新書など多読に向いていそうな本はいくらでもある。こういう「一般に読みやすいだろう本」ばかり読んでいるのだとしても、本人が愉しいならこれは大変に有意義な読書である。たくさん読まなきゃ得られない体験もあろう。このスタイルが性に合わない、或いは、卒業したとからといってわざわざ腐してみせるなどは無粋である。

一方、より難解な専門書、より晦渋な文学、より実践的な実用書なんかをじっくり精読する人が、「自分は質の高い読書を満喫している」と吹聴したくなる気持ちもよくわかる。難解な本を読み通すことで得られる快感というのは確実にあるし、晦渋だからこそ味わえる妙味というものもある。実践的な読書のお陰でビジネスパーソンとして成長著しい自分を発見する、というのもこのご時勢なら強力な自己承認をともなう立派な娯楽だろう。これもまた有意義な読書である。精読することでしか得られない体験もあろう。が、その意義は量の読書を否定するものではない。

それら読書派を横目に、恋愛に勤しみ、インドを旅し、山に登り、ボランティアに参加し、世界を肌身で感じている人が、「自分は机上では得られない実体験を積んできた」と吹聴したくなる気持ちもわかる。恋も旅も喜びも悲しみも、或いはありふれた人間の生や死も、頭と体とでは理解の仕方に違いがあるのは当然だ。実体験がもたらす圧倒的で明文化し難い実感に人生の真実を幻視する。これまた魅力的な娯楽であり、実に有意義である。実践でしか得られない体験もあろう。が、机上で得られる体験と町で得られる体験は、包含関係や上下関係にあるわけではない。

量の読書で充実している人と、質の読書で充実している人と、町に出て充実している人が、それぞれの充実を主張するために互いを否定しあう必要はない。隣人の承認欲求がちょっと顔を覗かせたくらいでフルボッコに叩き潰してやらずともよかろう。彼我の意義は並び立たぬものでもない。それでも叩く人がいるのは、主張の内容いかんに関わらず「叩きのめす」こと自体がひとつの娯楽だからだろう。誰かを叩くことで全能感なり自己肯定感なりを得るというのもまた、有意義な人にとっては有意義な人生の愉しみ方だろう。その人なりの人生の妙味があるに違いない。

いずれ、人生の意義、幸福といったものの多様性を否定することは、自らの可能性を狭めることでもある。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">人生</category>
        
         <pubDate>Mon, 23 Jan 2012 13:16:03 +0900</pubDate>
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         <title>婚活男女が求めているものは結婚ではない何か</title>
         <description>周囲でもリアルに婚活やそれに類する話を耳にするようになって久しい。

ずっと不思議に思っていた。いまこの時代、この国の一般庶民にどうして「結婚」なんてものが必要なんだろう、と。生活を伴にしたい異性が既にいるというのならまだ理解る。男女が一緒に暮らすなら制度的に結婚してしまうのがいちばん「楽」だろうと思うからだ。逆にいえば、結婚になんてその程度の意味しか見出せない。そういう人間が増えた。だから、見合いなんて結婚促進制度は廃れ、既婚率が激減しているんだと思っていた。が、思い違いをしていたらしい。切実そうな顔をして婚活に励む知人たちの話を見聞きしていると、もはや考えを改めざるを得ない。

そもそも既婚率が高かった時代の結婚の多くは強制に近いものだったはずだ。一から自分で相手を選んで自分のタイミングで結婚したなんてカップルはそう多くなかったろうと思う。つまり、既婚率低下の直接的な原因は、親族手配による強制婚の撃滅、お節介婆の絶滅、終身雇用下における上司からの紹介制度の廃滅といった、各種システマチックな結婚の消滅ということになろう。こうしてぼくたちは「望まない結婚」の頚木から自由になった。これは歓迎すべき消滅、来るべき自由だったはずだ。そして「ロマンスの帰結」としての結婚だけが無意味に取り残された。

変わったとはいっても、ぼくたちの親世代くらいになると「年頃になれば結婚するのが当たり前」だと思っている人は少なくない。こうした年長者たちによる狂信的かつ執拗な「結婚プレッシャー」はいまだ健在だろう。けれども、そんな外圧もすでに実効力を失いつつある。10代の終わり頃には仕送りとバイトで悠々自適のひとり暮らしを始め、そのまま就職してしまっていつのまにか独立、たとえ実家暮らしでも快適な自室に引きこもって親戚どころか親の顔もほとんど見ずに年頃を迎える。身近な他人もあまりプライベートなことには口出ししないことになっている。

そんな生活が染み付いたイマドキの人間が、旧来的な「結婚」を望んでいるとはとても思えない。昔風の見合いのごとき強制婚をすら望む声も聞こえるが、嘘に決まっている。あてがわれた相手を無条件に受け入れるのが、真に旧来的な強制婚の姿である。一方、友人知人に紹介された相手どころか、お金を払ってまで出会った相手ですら選り好みして結婚しないのが、多くの婚活男女の実態である。高望みはしないといいながら、「いままで出会えなかったレベルの相手」を探すのが婚活の本心だろう。それは、相手如何で自分の幸福が決まると思っている証左でもある。

「気侭な孤独」を満喫してきたはずが、いつのまにか幸福感という意味で逼塞しつつある。そんな人間が「結婚」という旧来的でわかり易い「人生のターニングポイント」に逃げ場を求めている。しかも過去の遺物でしかない「ロマンスの帰結」の本末が転倒して、婚活にロマンスを求めている節さえ感じられる。だから、これまでに出会っては却下してきたレベルの人間は要らない。…実につまらない話である。結局は他人に下駄を預けて幸せになろうとしているにすぎない。「いまここにいる不本意な自分」を矯正してくれるような「出会い」や「結婚」など夢である。

婚活なんて軽薄な流行がつまらない自分を「ここではないどこか」へ連れていってくれようはずがない。
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         <link>http://diary.lylyco.com/2011/12/post_365.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
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         <pubDate>Tue, 27 Dec 2011 15:03:14 +0900</pubDate>
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         <title>心身のリズムをつくる“週末リセット”のススメ</title>
         <description>ひと月ほど前から唐突にランニングを始めた。世間ではちょっとした流行らしい。

といっても、ぼくは土日祝だけの休日ランナーである。もとより平日に走る余裕なんてない。労基法と相性のいいデザイン会社？そんなものの存在をぼくは認めない！ぼくの目が黒いうちは…いや、今はそんな話はどうでもいい。とにかく、思い立ったが吉日とばかりに安手のウェアとシューズを買い込み、いきなり走り始めたのである。手持ちのTシャツやスニーカーで始めなかったのは、ただただテンションをあげるために他ならない。ついでに iPod shuffle まで買ってしまった。勇み足である。それはともかく、これが思いのほか悪くない。むしろ快適なのである。

もうかれこれ20年近くもロクな運動をしてこなかった。当然からだは辛い。が、意外に早く慣れる。いや、慣れる程度以上には無理をしない。これが肝要である。ぼくの場合は、近所の緑地公園を30分。スピードや距離には必要以上に固執しない。とにかく30分走りきる。それ以上のハードルはとりあえず課さない。その程度の気持ちで走り始めても、1日目よりも2日目、1週目よりも2週目の方が、明らかにからだが軽くなっている。筋肉痛に襲われたのも最初の2日くらいで、翌週からは脚の張りもなくなった。その辺りからである。平日もからだが楽なことに気が付いた。

まず、酷い背中のコリがずいぶんとマシになった。血行の問題だろうか。インドメタシンはもう要らない。それに走って疲れるせいか、その日の夜はよく眠れる。日頃、不眠の気があるぼくとしては愉快なことこのうえない。もちろん1週間の寝不足がひと晩で解消される道理はないけれど、朝の辛さはいくぶんマシになったように思う。月曜の朝、起き抜けのテンションが明らかに違う。おかげで平日のデスクワークが以前よりもずっと楽になった。これだけでも仕事に対する気持ちが違ってくる。からだが辛いと心も弱る。やる気の8割は、たぶん、元気でできている。

もうひとつ大切なことがある。走るなら「朝」だ。これで自然と前の晩は夜更かしを避けるようになる。金曜の夜だからといって無闇にフィーバーしたりしない。酒量が減って経済的でもある。近頃なんて、気が付けば平日より早い時間に起きている。顔を洗って目を覚ましたらすぐに着替えて家を出る。持ち物はタオル、腕時計、財布、それからキーケース。公園まで自転車で行き、念入りに準備運動をしてから走り出す。…30分後、軽く整理体操をして公園をあとにする。コンビニでアクエリアスを買い水分補給などしつつ帰路につく。全行程で1時間ほどだろうか。

帰宅し、シャワーを使ってさっぱりする。この段階で、まだまだ全然「朝」である。昼近くまで寝ていたときより、からだもずっとよく動く。朝日で生物時計がリセットされ、全身が快適なリズムを取り戻している。そんな気がする。これで休日の過ごし方がまったく違ってくる。とにかく、1日が長い。やることをやってもまだ十分に時間がある。何かをやろうという気力もある。実のところ、週末ランニングのいちばんの棚ボタがこれだ。休日が充実する。おかげで心身ともに気持ちよくリセットされ、1週間分の澱がきれいに濾過される。いまのところ、副作用はない。

こうした自身の変化が、いまは楽しくて仕方がない。ランニング用のプレイリストを作るとか、冬物のウェアを物色するとか、周辺の楽しみもある。今日は脚がよくあがるとか、からだが重いとか、その日の体調のバロメーターにもなる。走り終えて1週間の疲れがドッと出るような日は迷わず昼寝をする。そんな日は日がなゴロゴロと過ごしても後悔はない。何よりランニングは孤独だ。自分のからだや景色や音楽、或いは、思考の中に没入できる。これがぼくには向いている。そのうち飽きるかもしれないけれどそれでも構わない。苦痛ばかりになるならやめればいい。

いずれ軽薄な流行だなどと馬鹿にせず、何でも一度はやってみるものである。</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/09/post_366.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">身辺雑記</category>
        
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         <pubDate>Wed, 30 Sep 2009 12:24:15 +0900</pubDate>
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         <title>消えたベルキューブ〜続報</title>
         <description><![CDATA[６月に書いた「<a href="http://diary.lylyco.com/2009/06/post_321.html">消えたベルキューブの行方を伊藤ハムに問い合わせてみた</a>」の続報。

秋から冬頃を予定しているという話だったベルキューブの復活がいよいよ具体化してきたらしい。実に「嬉しい」と「じれったい」が相半ばする知らせである。結論からいえば、伊藤ハム側の取り扱いとしては11月1日（日）より販売開始、ただし、各スーパー店頭での取り扱いが休止以前の店舗数に戻るのは来春になるとのこと。春の棚替えといえばたいてい３月頃だろうか。即時取り扱い店舗が近所にあればいいけれど。ともあれ、あのときの問い合わせがいまだきっちり継続処理されている伊藤ハム広報の管理体制に驚愕しつつ、以下にメールの内容を転載しておく。

<blockquote>平素は弊社商品にご愛顧賜り、心よりお礼申し上げます。<br />以前、お問い合わせいただきました、ベルキューブ・アソート品<br />（ビストロ、ア・ラ・プロバンス、フロマージュ)３種につきまして、<br />販売再開時期が決まりましたので、お知らせさせていただきます。<br /><br />【販売開始】…11月１日(日)より<br /><br />【お詫び】<br />各スーパー様では季節ごとに店頭に陳列される商品の棚替えを行っております。<br />今回、フランスからの入荷時期が遅れたこともありまして、秋の棚替え終了後に<br />入荷することになり、取り扱っていただけるスーパー様が減っております。<br />ご迷惑をおかけし、大変申し訳ございません。<br /><br />次回の棚替え（来春）には、販売休止以前通りの販売店舗数に戻る予定ですので<br />何とぞご理解賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。</blockquote>


おそらくは、棚の陳列にある程度融通の効く店舗から順次仕入れが始まるんだろう。逆に、売れ行きに多大な影響を与え、それゆえに棚の取り合いが熾烈を極めるであろう大手スーパーなんかは来春になる可能性が高いのかもしれない。まあ、スーパー業界になんの伝手も知識もないぼくの予想に信憑性なんてこれっぽっちもないわけだけれども。だったらあれこれとない知恵を絞ってみても始まらない。実はダメ元でこの秋から入手可能な取り扱い店舗について、再度問い合わせをしているところだ。運良く有用な情報が手に入るようなら、またここで報告しようと思う。

ああ、はやく家呑みの食卓にベルキューブの「ビストロ」を並べたい！]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">身辺雑記</category>
        
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         <pubDate>Tue, 29 Sep 2009 08:55:00 +0900</pubDate>
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         <title>マスコミ衰退と非コミュ増大の相関と未来</title>
         <description>人と上手くコミュニケーションがとれない。

とりわけ言葉が不如意なわけでも、端からコミュニケーションの意思がなかったわけでもない。にもかかわらず非コミュ化する。コミュニケーションから遠ざかる理由がみんな同じだとは思わない。けれども、理由のひとつがコミュニケーションの「不可能性」への自覚であることはたぶん間違いない。コミュニケーションというのはバーバルにしろノンバーバルにしろ、それが伝えるところに「共通の理解」があると信じることでかろうじて成り立っている。比喩的に「共通の言葉を持つ」といい替えてもいい。共通の言葉を支えるのは、要するに「共通の価値観」である。

マス・コミュニケーションというのは、実にいい得て妙だなと改めて思う。マスコミは「大衆の価値観」を発信、或いは、再生産するための装置として、これまでよく機能してきた。多くの人が同じ豊かさを求め、同じ享楽に身を委ね、同じ幸福を夢見ることができた。それは、ひとつには高度経済成長が生んだ共同幻想だったんだろう。マイホームは夢であり、恋愛は人生の彩であり、円満な家庭は幸福の象徴だった。新しく家電製品を買うことについて、好きな異性ができたことについて、マイホームのための貯蓄について、誰もが同じように語り合うことができた。

マスコミとマス（大衆）は価値観をキャッチボールし合い、互いにその価値観を強化し合ってきたんだろう。マスコミは文字通りマス（大衆）とコミュニケーションし、同時に大衆の間で消費されてきた。人々はマイホームという価値観を消費し、恋愛という価値観を消費し、幸せな家庭という価値観を消費した。三種の神器や3Cのような具体的なモノか幸福のような抽象的なものかにかかわらず、マス消費時代にはそれらが「共通の言語」として十分に通用した。それらの価値観に基づいてコミュニケーションする限り、多くの人々はちゃんと「解り合えた」のである。

風穴を開けたのは、おそらく「情報化」である。最大公約数的なマス（大衆）みたいなものは、当然、実在しない。幻想である。情報化以前、個人が知ることのできる自分以外の個人には限りがあった。だから、共同幻想の下に「多様性」は隠蔽され得た。それが明るみに出始めた。価値観はたぶん多様化したわけではない。その多様性が発見され始めただけのことである。「共通の価値観」を前提とするマス・コミュニケーションにとって、これは極めて重大な変化である。あえて「マスコミ」と書かなかったのは、それが大衆間のコミュニケーションをも含むからだ。

要するに、「価値観の多様性」と「コミュニケーション」はトレードオフなのである。過渡期において「価値観の多様性」に自覚的な人、或いは、自覚的にならざるを得なかった人ほど「コミュニケーションの不可能性」に直面しやすくなるのは、個人の問題というよりはコミュニケーションそのものの「本質」に関わる問題である。そして、共同幻想を幻想と認識した瞬間、コミュニケーションは不可能である、ということが前提になる。そこに「非コミュ」が生まれる。逆にいうなら、「非・非コミュ」にはいまだマス・コミュニケーションが「効く」可能性が高い。

いま、不自然なマスコミが衰退し、自然な非コミュが増えつつある。ぼくにはそんな風に見える。けれども、コミュニケーションというのはマスに限らず、元来「不自然」なものだったはずである。解り合えないのが当たり前の人間同士がなんとか意思を伝え合おうと努力してきた。その結果、「言葉」をはじめとするコミュニケーションが発達してきたんだろう。それが、共同幻想にどっぷり浸かっているうちに、いつの間にかコミュニケーションの「不可能性」を忘れ、芋蔓式に「解らないものを解り合おうとする努力」までが放棄されつつある。いわば、退化である。

いまこそ、マスに頼らない本当のコミュニケーションを模索すべきときなのかもしれない。</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/09/post_363.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
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         <pubDate>Thu, 24 Sep 2009 08:57:10 +0900</pubDate>
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         <title>300円分のお米と300円分のお金の決定的な違い</title>
         <description>ベーシックインカムやなんかの話を見聞きしていると、世の中倒錯しているなと思う。

いや、倒錯しているのはぼくの方なのかもしれない。何の話か。お金とモノと価値の話だ。どうもみんな、他人が決めた価値を無批判に受け入れすぎなんじゃないかと思うのである。当たり前のことだけれど、300円分のお米と300円分のお金はまったく別のモノだ。なぜなら、モノの価値にはふたつの側面があるからだ。ありていにいうなら、「自分にとっての価値」と「みんなにとっての価値」である。いまにも飢えて死にしそうな人にとって、300円分のお米と300円分の消しゴムの価値は同じではない。それを同じだと思うためには、そう思える程度には裕福でなければならない。

そもそも、貨幣というのは交換を前提とした道具である。交換というのは余剰があって初めて正常に成り立つものだろう。余剰を出し合って必要なモノや何か別の余剰なモノと取り換える。人として最低限の衣食住すら余剰だというつもりがないなら、それはお金に変えられるものではない。誰かと交換してもいい「余剰の価値」を交換相手と擦り合わせる。それで、レートが決まる。そうやって決められたレートを数値化した先にお金はある。つまり、お金が担保する価値は多数決で決められた「余剰の価値」である。余剰でないモノの価値をお金で量ることは、原理的にできない。

お金というのはつまるところ、「強者の価値観を数値化したもの」にすぎない。もっというなら、強者のルールで遊ぶための「チップ」である。だから、「最低限の衣食住を賄えるだけのお金を手にしている」ことと「最低限の衣食住を手にしている」ことは、まるで意味が違っている。衣食住にさえこと欠く人間にお金を与えることは、「チップ」を渡して強者のルールで遊べといっているようなものだ。ベーシックインカムなんてものを考えるくらいなら、最低限の衣食住を現物支給する方がマシだとさえ思う。弱者が強者のゲームから降りられないというのは理不尽ではないか。

人は「お金がないと生きていけない」わけではない。みんなで「お金がないと生きていけないゲーム設定にしている」だけのことである。力を蓄えて強者のゲームに参加する気になれば、自ら進んでそうできる。そのとき初めてお金が必要になる。原始的な弱肉強食を信奉するのでない限り、その程度には成熟した社会を目指すべきだろう。余剰は生きる愉しみであるべきだ。なのに、「強者のルール」に殉じる人間が後を絶たない。お金のために死んでしまう人間がいるということは、「多数決で決められた価値」を自分の生よりも上位において生きる人間がいるということだろう。

そんな風にお金が生きる苦しみになる世の中はやっぱり倒錯している、とぼくは思う。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">価値観</category>
        
         <pubDate>Mon, 14 Sep 2009 20:43:14 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>何をやっても「面白くない」のは何故か？</title>
         <description>それはたぶん、最初から「面白そうなこと」しかやらないせいだろう。

或いは「（有形無形の）成果が得られると予想できること」といい換えてもいい。目的をもって行動し結果を得ることばかりにぼくたちは慣れ過ぎてしまったんだと思う。それは要するに先が見えていることしかやらないということだ。もっというなら、行き着く先に「報酬」やそれに類するものが解りやすい形でなければ動かない。無駄を嫌う。「泣ける」映画を観に行ったり、「儲かる」仕事を探したり、「モテる」ファッションに身を包んだり、「面白そう」という言葉の向こう側に誰にも解りやすい形の見返りを期待している。だから、それらが得られないと「面白くない」。

それだけじゃない。期待したものがそれなりに得られても、それほど面白くはないだろう。当然だ。何かが得られることを想定して行動しても、成果が当初の期待を超えることはまずない。良くて期待通り。実際には、それすら稀だろう。つまり、先が見えている段階で面白さは頭打ちなのである。「本当に面白いこと」は予想できないものだし、予想できないからこそ面白いのである。そして、本当に何かを愉しんでいるとき、人はその先にある「成果」を目的とはしていない。「成果」は愉しんだ結果、ついてきたりこなかったりする。「面白さ」と「成果」に強い相関はない。

とはいえ、人は「ご褒美」に弱い。いい成績をとったら親に褒められた。あまつさえ、お小遣いまで貰った。すると、今度は褒められるために、お金のために勉強をするようになる。もちろん勉強の「面白さ」はご褒美にあるわけではない。それは、知る前と後で世界が違って見えてくる快感であり、よりよく生きるために積み上げられていく哲学であり、一所懸命にやったという経験がもたらす充実である。けれども、それら迂遠な悦びはご褒美の端的な解りやすさの前に簡単にかき消されてしまう。といって、ご褒美に満足することもまた難しい。無限の不満だけが燻り続ける。

「何のためになるのか」も、そこから「何を得られるのか」もよく解らない。たぶん、そういうものの中にこそ「本当の面白さ」はある。何も難しいことじゃない。ご褒美を忘れてすべてのものを見直してみればいい。ファッションの愉しみが「モテ」だけである必要はないし、仕事の愉しみが「お金」だけである必要もない。ぼくたちは「価値があるのかないのかよく解らないこと」として色々なことを一所懸命にやってみればいいんじゃないかと思う。何かのためではなく、それ自体を一所懸命にやる。原理的に「本当に面白いこと」が予測できない以上、そうするしかない。

お金や他人の評価みたいなものは、一所懸命にやっても適当にやっても達成した「成果」が同じなら原則として同じだけのものを得られる。けれども、自分がよりよく、より面白く生きるための糧という意味では、おそらくまるで得るものが違ってくる。それは誰にも評価なんてできないし、解りやすい価値に置き換えることもできない。いずれ、「本当に面白いこと」は「何をやるか」ではなく「どれだけ一所懸命にやるか」の問題なんだろう。陳腐な結論にも真理はある。曰わく「面白くないから一所懸命になれないのではない。一所懸命にならないから面白くないのである」。

ちなみに「面白くない」の部分は「意味がない」や「価値がない」にも置換可能だ。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">人生</category>
        
         <pubDate>Tue, 08 Sep 2009 10:25:02 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>自己決定と自己責任の圧倒的な非対称性</title>
         <description>時折、「自己責任論」をフェアなものとして捉えているらしい人を見かける。

そういう人の多くは「自己決定」による結果への影響を高く見積もりすぎているのだろう。或いは、根拠のない「全能感」の表れといってもいい。この種の全能感は人生のすべての瞬間が「自己決定」に委ねられている、という世界観を前提とする。そうした自我の世界では、いま手にしている「利」のすべては自分の手柄であり、被った「害」のすべては自分の責任である。これは一見、とても能動的な世界観に見える。が、実は逆である。何故なら、それは「自己決定」不可能な条件を「すべて所与のものとして無批判に受け入れる」ことでしか成り立たない世界観だからである。

「自己決定」という入力が「ブラックボックス」を通り、ひとつの「結果」として出力される。「自己責任論」の瑕疵のひとつは、この「自己決定」権の強制と不自由を、まるでないもののように扱う点だろう。実のところ、「自己決定」にかかる自由意思というのは極めて小さな権利しか与えられていない。そもそも「選ばない」という意思すら自己責任の名の下に「自己決定」したことになるのである。当然ながら、選ぼうにも選べない選択肢は膨大すぎるほどに存在する。酷い場合は「どれを選んでも不利益にしかならない」なんてこともある。それも、思いのほか頻繁にある。

さらに、生まれ落ちたその瞬間から与えられる「所与の条件」には、とても無視できない有意な個体差が存在する。それは「選択肢」に個人差を生むだけでなく、「ブラックボックス」の性質にも大きな影響を与える。つまり、たとえまったく同じ「自己決定」を入力したとしても、「ブラックボックス」の特性いかんによってまるで違った「結果」が出力されるのである。しかも、そうして得られた「結果」が、次の「選択肢」や「ブラックボックス」にフィードバックされ続ける。そして、初期段階の小さな入力差が、良くも悪くも、ほとんど予測不可能な差異に成長してしまう。

要するに、「自己決定」とその「結果」はまったく自明な理路で繋がってなどいない。責任を負わされるほどに成長した人間が抱える「ブラックボックス」は、ほどんど解明不可能なほどに複雑化してしまっている。つまり、「自己決定」した内容などより、その「ブラックボックス」による加工の方が「結果」に対してよほど大きな影響力を持っている。いい換えれば、もっとも素朴な「自己責任論」というのは、「いまの時代にいまの両親から生まれた」というどうにもならない事実にまで遡って、すべての環境要件と過去のすべての行動について責任を負うことを意味している。

果たして、そんなものがフェアといえるだろうか？</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">自己責任論</category>
        
         <pubDate>Wed, 02 Sep 2009 18:23:46 +0900</pubDate>
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         <title>無駄遣いをなくすための２つの判断基準</title>
         <description><![CDATA[自分に「本当に必要なもの」だけを手に入れる。

いうほどに簡単なことではない。そもそも「必要」という言葉は誤解を生みやすい。解釈に幅がある。たとえば、ギリギリ命をつなぐ「必要最低限の衣食住」以上のものはすべて余剰だという見解はあるだろう。或いは、命をつなぐ「必要」さえ確かなものではないのだから、どんな「必要」も主観の問題にすぎないという見解もむろんあり得る。とはいえ、いま目の前に欲しいものがあるというときにそんな前提から考えていては日常生活に支障をきたす。だから、ここでは目の前のそれの必要性を量るのに比較的「汎用性が高く」、そこそこ「実用的」な基準を２つ提示してみる。

-----

<em>・それを買ったときの満足感や幸福感の大きさ</em>

何かを買うとき、よくよく考えてみると「必要だと思い込んでいるもの」や「不要だと思い込んでいるもの」というのは、たぶん、少なくない。他の誰かに必要なものが自分にも必要だとは限らないし、他の誰かに不要なものが自分にも不要だとは限らない。そんな思い込みのせいで、買ったのにさして満足を得られなかったり、買えば満足したはずのものを我慢してしまったりする。それだけじゃない。「欲しいと思い込んでいるもの」とか「買うのが当たり前になっていて自動的に買ってしまっているもの」なんて性質の悪い思い込みまである。それは「本当の満足」を遠ざける。

要不要はその都度、自分の意思で決めればいいのである。「当たり前」はない。その前提を銘記して目の前のそれを見つめ直す。基準は「満足度」。それだけだ。そのパケット定額制は本当に必要か。どこかで後ろめたく思っている趣味の同人誌コレクションは、本当に後ろめたく思うような不要の出費なのか。その長編マンガは本当にいまだ買い続けるほど愉しめているのか。毎日昼休みのたびにコンビニに立ち寄っては要らないものを買い込んではいないか。満足度の低い瑣末な快楽のために散財するから「何に使ったのか分からないのにお金がない」なんてことになるのである。


<em>・それを買わなかったときのストレスや損失の大きさ</em>

もうひとつ、やっぱり正反対の基準も考慮すべきだろう。買ったときの満足度は低くても、買わないことのストレスが高すぎる。そういうものはあると思う。ある人にはそれは「煙草」や「お酒」かもしれない。或いは、未読の本が常に手元にないと落ち着かないという人もあるかもしれない。もっと切実なところでは食糧や衣料品なども、買ったときの満足度はそう高くないかもしれない。グルメやファッションに興味がなければ、どちらも「必要に駆られて」買う程度のものだろう。けれども、それらなくして生きていくことは難しい。飢餓のストレスを軽く流せる人は稀だろう。

だから、たとえ満足感や幸福感が低くても買うべきものというのはある。そういうものに支払うお金は実はお金ではない。お金というのは「何にでも交換可能なもの」である。最低限の食費なんかは「食糧以外のものに交換できないもの」なのだから、それはすでにお金ではない。お金の形をした食糧そのものである。まだある。たとえば「身だしなみなんて興味ないしどうでもいい」といってお金をかけず社会性を著しく棄損した場合、その損失の大きさは「無駄遣いをなくして得たプラス」を大きく上回って赤を出す可能性がある。その辺りも冷静に、総合的に判断すべきだろう。

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以上が、ぼくが考える「本当に必要なもの」の基本的な見極め方である。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/08/post_360.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">ライフハック</category>
        
         <pubDate>Mon, 31 Aug 2009 20:05:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「理屈っぽい人間」はおしなべて不幸である</title>
         <description>人が理屈を求めるとき、そこにはたぶん、ふたつのスタートラインがある。

ひとつは、ゼロからのスタート。これは、好奇心や探究心に基づくもので、「なぜ、月は見かけの形を変えるのか？」といった類の疑問に端を発する。もうひとつは、マイナスからのスタート。これは日常を覆う不幸に起因する。「なぜ、友だちができないのか」「なぜ、恋人がいないと辛く感じるのか」「なぜ、お金が儲からないのか」…などなど、人生の不具合は数え上げればキリがない。たとえば百花繚乱の理屈が楽しめる「はてな村」など眺めているとそのことがよく分かる。そして、ぼくたちが日常必要とする「理屈」の大部分は、このマイナススタートの理屈ではないか。

およそ人は、幸せなことや何不自由ないことについて「理屈」をつけようとはしない。少し前に流行った「リア充」なるものがもし実在するなら、彼ら自身は「リア充」なんて言葉を作ってまでそれについて理屈を捏ねたりしないだろう。理屈を捏ねるのは「リア充」になり損なった人間ばかりだ。「エリート」ということばにひっかる人は「エリート」について、「差別」に晒された人は「差別」について、「才能」に思うところのある人は「才能」について理屈を捻りだし、どうにか呑み込んでやろうともがく。内面が「理」を求める。そうやって、どんどん理屈っぽくなっていく。

ぼくがブログでコミュニケーションやモテについて、或いは、仕事や収入について理屈を捏ねるのは、やっぱり、そこにある種の不幸を感じてきたからだろうと思う。そして、いまなおそこに不幸の片鱗を感じ取ってもいる。それは他人の言葉の中にであったり、自分の割り切れない感情の中にであったりする。そして、そうしたあまりにありふれた不幸の中には、本質的に「どうにもならないこと」が多く含まれている。つまり、それら「人生の不具合」を正すことは、ほとんどできない。努力や運がうまく作用することもあるけれど、そんなものはごく限られたケースにすぎない。

理屈っぽい人間は、だから、たいてい屈託を抱えている。「理屈っぽい」というのはただの性格ではない。それは理屈の向こうに「不幸」を見付けてしまったことの証左である。それは、その人間の処世術であり、不幸を御する作法でもある。理論武装などというとネガティブなイメージばかりが先行しがちだ。けれども、ぼくは「理屈」で飼殺すべき不幸はあると思う。「それは本当に不幸なのか？」と考えることはときに有効だ。意図して他者を貶めることで自分を守るような「理屈」をぼくは嫌悪する。けれども、不幸を相対化しうまく付き合うための「理屈」をぼくは愛する。

だから、不幸と戦おうともがく「理屈っぽい人間」が、ぼくは好きだ。</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/08/post_359.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">幸福論</category>
        
         <pubDate>Fri, 28 Aug 2009 19:27:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>給与交渉をするとはどういうことか？</title>
         <description>お金について酷く当たり前な話をしてみる。

たとえば、会社からもらう給料に不満があるとする。なぜ不満なのか。答えは大きくふたつに分けられる。ひとつは「自分の労働の価値に比して給与が少ない」という不満。もうひとつは「（自分の価値とは無関係に）より多くのお金が欲しい」という不満だ。本来、会社をはじめとする営利組織は、その本質として前者の問題しか扱えない。少なくとも前者は利害の問題に収斂され得る。「あらゆる点で公正な評価」みたいな理想は叶えられないまでも、前者の不満との「対話」は可能だろう。けれども、後者はそうはいかない。そのために割くべきお金には「根拠」がないからだ。

単純化するなら、労働者は会社に対して「価値」を提供することで「対価」を得、会社は社会に対して「価値」を提供することで「対価」を得る。労働者が提供する価値を有効利用して市場に対する価値に転換、最大化するのが経営の大きな役割のひとつといっていい。こうした構造下では、「給与に対する不満」は３つのレイヤーに分けられる。ひとつは「自己に対する過大評価」。これは単純に、自分で思っているほど社会的に価値がないケースだ。要するに、自信過剰だとか勘違いの類である。会社としては突っぱねるのが正しい。受け入れれば他の誰かが割を食うことになる。

問題は、残るふたつである。ひとつめは「経営陣の能力不足」。会社が労働者の価値を適正な市場価値に転換できない。労働力の使い方が下手か、或いは、売り込む力がないのだろう。つまり、労働力はあるのに儲からない。よって、ない袖は振れないということになる。これはどうこういったところで、経営が悪い。にもかかわらず、労働者を評価する権限は普通、経営陣にある。この場合、労働者は経営陣の非を認めさせ彼らの給与を奪うべく戦うか、自ら経営に関わって実績をあげるか、見切りをつけて会社を去るか、不満な給与に甘んじて耐えるかを選択しなければならない。

もうひとつは「評価制度に対する疑問」である。大抵の場合は、先のふたつとのコンボだったりもするのだけれど、そこはまあそれである。前提として、労働者に適正な労働力があり、会社は適正な市場価値を生んでいる、ということにしておく。よって、会社には十分な支払い能力がある。にも関わらず、その配分がおかしいというケースである。これはほとんど永遠の課題といってもいい。正解はない。ただ、自分の価値を認めさせ、お金を分捕る先が「会社存続のための財布」か「経営陣の財布」か「同僚の財布」かは意識しておくべきだろう。それで、戦い方が変わってくる。

ところで、お金というのは数値化され抽象化された「価値」である。だから、お金の移動は「価値を認める者」が「価値を生む者」に支払うという形で行われる。逆にいえば、その性質上「価値を認められない者」へは支払われない。これは当たり前だけれど、大切なポイントだ。会社が「（自分の価値とは無関係に）より多くのお金が欲しい」という不満に答えにくいのはそのためだ。会社は「社会的な価値」以外に対価の「根拠」を持たない。「価値」のないところに利を分配する。そんな無理を通せば、しわ寄せがどこかにくるだろう。悪くすれば会社として体をなさなくなる。

では、「（自分の価値とは無関係に）より多くのお金が欲しい」と主張することは不当だろうか。ここは、人が生きるための基本的な衣食住までもが「価値」に置き換えられる世界である。ぼくたちは自らの「価値」を誰かに認めさせなければ「生きること」が許されない。つまり、比喩ではなく現実に「人間の命はお金に換算されている」のである。社会的に十分に認められるだけの「価値」を持たない人間が生きようと思えば、「（自分の価値とは無関係に）より多くのお金が欲しい」と主張せざるを得ない。これはもう「給与交渉」の問題ではない。「社会福祉」の問題だろう。

けれども、ぼくたちはいまだ他人から命を買わなければ生きられない社会を生きている。</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/08/post_358.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">考えごと</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">雇用</category>
        
         <pubDate>Thu, 27 Aug 2009 19:25:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ワードサラダがスパムでなくなる日</title>
         <description>コンピューター生成による“ワードサラダ”と呼ばれるスパムがある。

形態素解析や構文解析は文法を解する。が、文意を解さない。それで、文法的に正しく文意の通らない文章ができあがる。統合失調症にみられる言語障害が言葉のサラダ（Word salad）と通称されるのに倣って、機械仕掛けの支離滅裂な文章をワードサラダと呼ぶらしい。これがスパム分野で大活躍し、一躍、悪名を馳せた。SEO的に有効な「それらしい」文章をコンピューターで自動生成でき、しかも、その「文意の通らなさ」をコンピューターは判断できない。判断できることと作れることが対である以上、これはどうにもならない。結果、検索結果から追い出すことができない。

逆にいえば、検索エンジンが“ワードサラダ”をスパム判定できるようになるということは、コンピューターが“ワードサラダ”ではない文意の通った文章を自動生成できるようになるということでもあるんだろう。そのときスパマーと呼ばれるアフィリエイト業者は、ウェブの大海からキーワードに連なる情報を根こそぎ掻き集め、「文意の通った」文章をコンピューター生成してみせるに違いない。そうやって公開されたアフィリエイトブログは、やはり検索結果から追い出すことはできない。そもそも「書く」頭脳と「読む」頭脳が同じなのだから、この関係はたぶん覆らない。

ところで、関連性の強い情報をつなぎ合わせ、文意の通る新しい文章に仕立てるようなことは、案外、人力でもやっていたりする。それも、極めて「有用な」行為として。もちろん、コンピューターが文法と文意の「正誤だけ」しか判断できないなら、内容自体の「価値」を高めることは難しいかもしれない。それでも、たとえば「どれだけ読まれ、言及されているか」といった指標を用いて「有用性の高そうな」情報ソースをマッシュアップしアフィリエイトブログに仕立てるなら、それはすでにスパムとは呼べないように思う。人力にさしたるアドバンテージはないのではないか。

ワードサラダがスパムでなくなるとき、人は情報の発信者として「文法」と「文意」と「情報収集力」以外の武器を持たなければ、ほとんどその意味を失ってしまうかもしれない。つまり、「まだない情報」を生み出すなり、「文法の正しさ」や「文意の無謬性」のみに憑拠しない「表現力」を発揮するなりしないことには、発信する価値の大部分を失いかねない。それはたとえば、計算機の発達よって「算盤名人」の価値が、或いは、ウェブの発達によって「歩く百科事典」の価値が地に落ちてしまったように。そうして、クリエイティビティ不在の文章は機械に取って代わられる。

そのとき、果たして自分は「まだそこにない価値」を少しでも付加し得るだろうか…？</description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/08/post_357.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ネット周辺</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">言葉</category>
        
         <pubDate>Mon, 24 Aug 2009 15:53:35 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>努力が報われるかどうかなんて社会とは何の関係もない</title>
         <description><![CDATA[どうにも「努力」や「報酬」という言葉が硬直しすぎている。

・<a href='http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090820-00000084-san-soci' title='「努力報われる」半数に満たず　格差拡大　大学生冷めた見方（産経新聞） - Yahoo!ニュース'>「努力報われる」半数に満たず　格差拡大　大学生冷めた見方（産経新聞） - Yahoo!ニュース</a>

彼ら冷めた見方の大学生たちには、ぜひ「あなたはどうなれば努力が報われたと感じるのですか？」と訊いてみたい。彼らとて少し考えれば、それが多分に多様性を含んだ質問だと気付くはずだ。思うに、そもそも質問の仕方がおかしいのである。たとえば「努力が報われる社会だと思いますか？」なんて訊き方はフェアではない。それはほとんど「一所懸命に働けば地位や富が十分に手に入る社会だと思いますか？」という意味しか持ち得ない。或いは、そう取られることを意図しているとしか思えない。それなら最初からハッキリそう訊くべきだろう。言葉遣いが恣意的にすぎる。

そんなふうに「努力」や「報酬」の定義を矮小化するから話がおかしくなるのである。趣味のサーフィンがうまくなる努力をしたとしよう。どうなればその努力は報われたといえるんだろう。うまくなることが報酬だろうか。それとも、一所懸命に努力することで過ごした充実した時間や経験そのものが報酬だろうか。或いは、うまくなって人に尊敬されたり異性にモテたりすることが報酬だろうか。はたまた、プロになってお金を稼げることが報酬だろうか。いうまでもない。どれもが報酬たり得る。もっと別の意味で報われたと感じる人もいるだろう。それを個人の価値観という。

本来、何を得るためにどんな努力をするかなど極めて個人的な問題でしかない。ただ、その中には「社会」からしか得られない報酬が一部含まれているというだけのことだ。先の例でいうなら「尊敬されたり異性にモテたりする」や「プロになってお金を稼げる」がそれにあたる。これらは社会的な価値と努力の結果が合致しなければ得られない報酬である。けれども、そればかりをありがたがって、それ以外の価値を見失ってしまうのは自ら不幸の淵を引き寄せるようなものである。幸福に対する感度の低さはエスカレートする。富や名声とて簡単に報酬としての価値を失うだろう。

幸福の種を誰かに与えてもらうことはできない。いくら褒められても、いくらモテてても、いくらお金をもらっても、そこに歓びを見出すのは自分自身でしかない。逆に、誰から何を得たと感じるかは自分次第だということもできる。或いは、誰にも何も与えられなくても歓びを見出すことはできるだろう。「努力」というのはそいうもののためにすべきだし、そうした有形無形の歓びのすべてが「報酬」であるべきだ。社会が不寛容で窮屈に思えるのは、不寛容で窮屈な社会の価値観を自分のものとして生きているからだろう。何もそんな硬直した価値観を自ら選び取る必要はない。

ぼくたちは「努力」の形も「報酬」のありようも自分で選ぶことができる。]]></description>
         <link>http://diary.lylyco.com/2009/08/post_356.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ニュースネタ</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">努力</category>
        
         <pubDate>Fri, 21 Aug 2009 10:03:46 +0900</pubDate>
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