明日から仕事が苦にならなくなる自己欺瞞術

仕事が厭なのは、仕事は厭なものだと思っているからである。

のっけから、当然のことを書いてみた。ところで、あなたはなぜ、いつから仕事が厭になったんだろう。思えば働きだす前から厭だったなんてことはないか。まあ、中には就職前は働くことが楽しみでしかたなかったという人もいるかもしれない。が、そんなのは少数派だろう。ともあれ、何故か勉強が嫌いだったように、何故か最初から仕事が厭だったという人は、少し自分を振り返ってみた方がいい。それは本当に「自分の感性」に基づく評価だろうか。どうして、やりもせずに「厭なもの」だと判ったのか。誰かにそう教わったのか。もしそうだとして、なぜそれを信じたのか。

周囲の人間の多くが仕事嫌いだからといって自分まで仕事嫌いだと決めつける必要はない。そんなことでマジョリティたろうとしたところで、もうロリコンやらアニオタやらな段階でマジョリティではないのだから、好き嫌いをわざわざ周囲に合わせるなんて馬鹿げている。何が厭で何が厭でないか。そんなものは自分で決めた方が人生楽しいに決まっている。いまこそ、自分は仕事嫌いなんだと洗脳されてきた、自らの恥ずかしい過去を清算すべきである。もし、仕事がまったくこなせなくて心も体もボロボロだという人がいたら、それは仕事が身の丈に合っていないだけのことだ。

たとえばゲームが好きな人なんかは、お金を払って用意された労働に精を出しているにすぎない。それも酷い単純労働である。それを楽しいと感じてしまうのは、ひとえに課題の解りやすさと適度なハードルの高さゆえである。結局のところ、ぼくたちに必要なのは「適度なハードル」なのである。あなたは決してSTGが好きなわけではない。ボタンとレバーを延々操作して与えられたミッションをクリアするのが楽しいのである。それはあなたが仕事好きだという証拠でもある。毎日同じ電車に乗るのも、毎度同じ場所から現れる敵を撃ち落とすのも、愉しいゲームの肩慣らしである。

ゲームだけじゃない。絵を描くとか、ブログを書くとか、知人と酒を飲むとか、友人の誕生日を祝うとか、情報を蒐集するとか、金を貰うどころか払ってまで労働したがる人は多い。なぜなら、労働は楽しいからだ。労働によって得られる有形無形の「満足」が欲しいからだ。しかも、絵やブログを好きだと思い込んでいることに根拠はない。たまたま、手の届くところにあった労働に手を出したら愉しくなっただけのことだ。流行の萌え絵を習得することと、設計図通りの精密なネジを作る技術を習得することの間に本質的な差異はない。前者だけが楽しいなんてただの思い込みだ。

もちろん、絵も文もコミュニケーションもサービスも情報も金になる。ただ、趣味のそれよりは少々ハードルが高くなる。少なくとも誰かのニーズに合わなければお金にはならないのだから、これはしかたがない。けれども、ドラクエみたいな入力作業が好きな人に向いた単純労働はいくらでもある。ハードルがそう高くないものも少なくない。ドラクエを何十時間ぶっ通しでクリアするほどの入力好きなら、データベース入力を1日8時間で何件クリアできるかチャンレンジし続けるだけでも食っていける。DQは面白くてDBはつまらないだとか、外観に騙されている場合ではない。

ゲームセンターやソフトハウスに利するか、勤め先や資本家に利するかなんてどちらでもいいことだ。自分が愉しければ誰に搾取されようと構わない。搾取されないことより愉しんで生きることの方が大切だからだ。充実のためなら搾取も厭わない。それでこそ漢である。用意された適度なミッションに毎日チャレンジしながら愉しく生きる。自分がこれまでに「たまたま」好きになっただけの「趣味の労働」に縛られなければ、適度で愉しいミッションはいくらでもあるはずだ。レバーとボタンの操作だけよりずっと愉しい(かもしれない)労働なんて、世間に唸るほどあるだろう。

繰り返す。あなたの好き嫌いなんてあなたの意志とは何の関係もない。ただの偶然だ。

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comment - コメント

「めんどくせぇ」の根深さが恐ろしいです。。。

> RiceXX
「めんどくせぇ」は生きることそのものにまで適応されてしまうというのが深刻ですね。このエントリーは少なくとも趣味的なことをするのはめんどくさくないという人にしか通用しない、酷く限定的な話ということになります。

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