理を悪用する人間が理の通らない世の中を作る

デスクに張り付いていることが仕事なわけはない。もちろん、その通りだ。

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ここでホワイトカラーをどう定義しているのかよく分からないけれど、いわゆる上流工程に属するほどデスクに張り付いている必然性が薄いとはいえるかもしれない。実際、社長が毎日社長室に出勤してパソコンの前から動かない会社というのはどうかと思う。知事ともなると企業でいえば経営側に属する立場だろうし、いわゆる管理監督者ということであれば一般企業でも勤務時間に対して裁量権が認められていたりする。そんな立場の人が日がなデスクワークに追われているとしたら、むしろその方が心配すべきだ。プライベートと仕事を効率的に配分するのも能力の内だろう。

そもそも仕事とプライベートというのは、個人の中でそれほど明確に線引きできるものではない。勤務時間中にプライベートな何かが気になって仕事にならないこともあれば、休日にステキな仕事のアイデアを閃いてパソコンやノートに向かうことだってある。意識的にオンとオフを切り替えているという人だって、脳の構造や記憶が書き換わるわけではない。仕事のことを考えていない時間の思考さえ、仕事時のアウトプットに影響を与える。その意味で完全な切り替えなんてあり得ない。個人のどういう状態が仕事をしている状態か、なんてことは本質的には判別不能である。

つまり、勤怠管理というのは文字通り管理のためのシステムであって、本質的にある個人が仕事状態であるかどうかを判別するためにあるのではない。当たり前の話である。そして、そうしたルールは個々の能力というよりは、全体としての効率を考えて作られたものだ。単純にいって、ある程度スタッフ間の連携が必要な職場で各自の勤務時間がバラバラだと効率的に仕事をするのは難しい。管理コストだって増大する一方だ。それなら、管理する側の人間を管理するのは誰か。答えは明白だ。自分自身である。必要な時に必要なだけ働くことを自らに課す。それが管理者である。

管理職だろうか一般職だろうが、効率を最大化するために定められたルールの中、自分の裁量の及ぶ範囲で自由に仕事をすればいい。ここに理がある。橋下知事の行動も職責を果たしている限りにおいて非難される筋合いはまったくない。こうした理が通用しなくなるのは、それを悪用する輩が必ず出てくるからかもしれない。ただの怠慢を裁量権を楯に正当化したり、最大限利己的に裁量権を行使し一般職員を酷使するといった類の愚行である。こういうのが出てくれば、管理側に対する締め付けが厳しくなるのは当然だ。ダメな奴がデキる奴の足を引っ張る典型的な例だろう。

こうして、正当に権限を行使している人間が効率的に働けなくなっていくのである。

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