「気付いた人がやる」ルールを提案してはいけない

土佐堀川沿いのテラス
 
 
あなたがもし、ある仕事について「気付いた人がやればいい」といったする。

その瞬間から、それはあなたの仕事だ。職場の備品整理でも、代表電話の応対でも、ゴミ捨てでも、水回りの掃除でも、宅配の受け取りでもなんでもいい。どんなに些末な、仕事ともいえないような仕事でも、それを自分の仕事にする覚悟がないなら、そんなルールを提案すべきではない。自分以外の誰かにやらせたいなら尚更だ。

なぜか。「気付いた人がやる」が成立する集団では、そもそもそんなルールを作る必要はない。放っておいてもそういう運用になる。個々人の負荷状態や仕事の重要性に応じてオートバランサーが働く。逆に、「気付かない人」や「気付いてもやらない人」がいるから、ルールを作りたくなる。が、「気付かない人」はルールを作っても気付くようになるわけではない。「気付いてもやらない人」はそもそもやりたくないわけで、ルールを作っても気付かないふりをするだけだろう。

解決策は、2つくらいしか思い付かない。

ひとつは、それを正式に「仕事」にして、担当を決めることだ。「誰かがやってくれる」という状況をなくしてしまう。この場合、面倒なのは「気付かない人」を担当にしたときの教育だろう。気付いた人が自分でやってしまってはいけない。徹底して担当にやらせる。気付くまでイライラしながら放っておくような、無駄な精神エネルギーを使わない。気付いたらすぐに声をかける。ただただ淡々と。まあ、向いた人間を担当にする方が平和だろうとは思う。が、ソツのない人材を便利に使いすぎてボロ雑巾にしてはいけない。

もうひとつは、「気付いたら自分でやればいいや」と思い定めることだ。他人に期待するのは、とても心が疲れる。できない人が相手なら尚更だ。人には得手不得手がある。「これくらいのこと、気付いた人がやればいいのに!」というイライラは、「これくらいのこと」でも自分ばかりやらされるのは厭だ、という心の叫びだろう。「これくらいのこと」と思えないなら仕事に昇格させ、本当に「これくらいのこと」と思えるなら、つまらないことで怒らず自分でやればいい。いちいち怒って自ら疲弊するような話ではない。

たとえ大人同士でも、実のところそれほど「常識」を共有しているわけではない。集団生活ではそれが不和の種になったりもする。たとえば、「シュレッダーのゴミがいっぱいになっていたら気付いた人が捨てればいい」と思っているのは、もしかすると自分だけかもしれない。漠然と「誰かがやってくれる」と思っている人もいれば、「新人がやるのが当たり前!」と思っていたり、「腰かけOLの仕事だ」などと時代錯誤な常識を持っているオッサンもいるだろう。ある仕事の存在に気付けるかどうか、気付いたとして自分の仕事と思えるかどうか。いずれも、常識として共有されている保証はない、と思っておいた方が良い。

その仕事を「気付いた人がやる」のは、誰にとっても常識というわけではないのである。

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