労働者自身の「経営」とは結局のところ何なのか?

一労働者としては、やっぱり気になる話題なので改めて考えてみる。

経営がわかっている労働者と、わかってない労働者の格差が拡大していく理由 - 分裂勘違い君劇場
こんなものが「経営」か - モジモジ君の日記。みたいな。

まず、経営の語義を確認する。Yahoo!辞書の大辞泉には「事業目的を達成するために、継続的・計画的に意思決定を行って実行に移し、事業を管理・遂行すること。また、そのための組織体。」とある。つまり、少なくとも言葉の上では直接に「金儲け」を意味しない。ただし、継続的にある目的を遂行しようというとき、お金を一切使わずにできることはたぶん少ない。つまり、現実的には継続的に資金を調達し続けることが求められる。だからといって、この資金調達を経営の目的だといってしまうのは、個人的には抵抗がある。あくまでも資金調達は目的のための前提である。

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・労働者自身の「事業目的」は何か?

卓袱台を返すような答えとしては「幸福な人生」ということになろう。労働者とて人間である。ただし、それは何も労働者に限った話ではない。そこでもう少し絞って「労働者としての幸福」を考えてみる。これまた単純な話だ。「労働に対するリターンを最大化すること」である。そして「労働に対するリターン」には大きく二種類ある。お金に替えられるリターンと、お金に替えられないリターンだ。これはどちらも大切だ。一般的には「金」と「精神的充足」だろう。つまり「金」と「精神的充足」を自分に最適なバランスで最大化することが労働者自身の「事業目的」となる。

・労働者の「事業計画」とはどんなものか?

労働者の資金は能力だ。自分の「事業目的」における「精神的充足」の種類や、「金」と「精神的充足」のバランスなどの条件によって、必要とされる能力は違ってくる。つまり、いかに必要な能力を調達し続け、それを労働に加工しリターンを得るか。それが「事業計画」ということになる。当然、計画遂行に必要な能力を持たないなら何とかして手に入れる必要がある。ここで能力の調達を目的化してしまうのは本末転倒だ。また、誰もがメジャーリーガーにはなれない。自分の資質に合わないと判断したら早期に事業内容を変更することも必要だろう。この辺りの判断は難しい。

・自分の「労働」をどこに提供するべきか?

さて、リターンを得るには「労働」を提供する相手を探さなければいけない。恐ろしく基本的なことだけれど、これはふたつの条件のすり合わせで決めるしかない。ひとつは相手に自分の求めるリターンを支払うだけの用意があるか。もうひとつは、自分に相手の求めるだけの「労働力」があるか。これはもう出逢いにかかっているといっていいと思う。ほとんどコミュ力と運の世界である。万が一、自分の持つ「労働力」にまるで需要がないことが判明した場合は、もう一度「事業計画」を練り直す必要がある。ただ、時代の要請に適った能力を持つのも運みたいなものだとは思う。

・事業活動を「継続」するために…

ここから先は「事業目的の設定⇒事業計画の最適化⇒資金調達⇒事業の管理・遂行⇒事業目的の達成」というサイクルをいかに継続するかという経営手腕が問われることになる。いい換えれば、「目標の見直し⇒労働計画の最適化⇒能力獲得⇒労働⇒金・精神的充足の獲得」という流れをいかにコントロールし続けるか、ということになる。これらをすべて惰性で継続できる人は相当に運がいい。いうまでもないことだけれど、これは必ずしも被雇用者が雇用者にとって最適な奴隷になることを意味しない。もちろん、資本主義の奴隷、或いは、守銭奴として生きることも意味しない。

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以上、労働者の「経営」を考えるつもりがただの心構えの話になってしまった。

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