無意識に自分の価値を過小評価する人

人間の価値は総合的にはもちろん誰にも決められない。

勤務先と企業規模で人間の価値が決まる

20代後半を超えて気づいたにしては、少し残念な真実ではないかと思う。自分の対外的な価値は、ある程度コントロールできる。とても単純な話だ。20数年間、驚異の俊足だけをウリにして生きてきた人は、その俊足を失うか、或いは、俊足が意味を持たない社会に組み込まれた瞬間に、その対外的な価値を失う。家族に対しても、恋人に対しても、友人に対しても、社会的価値のある俊足以外、自分の価値をアピールしてこなかったなら、同時に、彼らからの興味も失うだろう。これは、自分の価値をただ「俊足」一点に賭けしてしまった以上、避けられない悲劇である。

この場合、何より深刻なのは俊足が社会的承認を失うことで、自分自身を承認できなくなることだと思う。俊足の価値を奪われた自分には価値なんてない。そんな風に思い込んでしまう。本当は、話上手なところや、人に優しいところや、頭の回転が速いところや、甘いマスクや、セクシーな肉体美に魅力を感じる人だっているかもしれない。ところが、そういうものに価値を認めてこなかった人には、それが誰かにとって価値あるものだということが理解できない。また、これまでそうした価値を馬鹿にしてきた人であれば、尚更、そんな価値観は受け入れがたい。

もちろん、「俊足」をより汎用性の高い「収入」に置き換えても同じである。収入以外の価値を認められていない人が収入を失えば、それは価値がなくなって当然だ。ただ、大抵の人は相手の収入にだけ価値を見出して人と付き合うわけではない。ぼくは中小企業勤めの負け組サラリーマンだけれど、収入が少ないからといって家族や友人や親戚や彼女に馬鹿にされたことはない。それは何も、ぼくが特別に魅力的な人間だからというわけじゃない。単に収入に依存する人間関係を築いてこなかったからだ。ぼくは市場価値を自他の承認の根拠にしてこなかったのである。

毎週末何万何十万と散財豪遊する豊かな人間関係もあれば、居酒屋はもったいないから部屋で飲もうとかいうような豊かな人間関係もあり得る。ぼくは、ぼくよりも稼いでいる人を羨ましく思うこともあるし、凄いと思うこともある。けれども、そういう人が稼ぎだけを自らの人間的価値として対人関係を築くのは、あまり賢いやり方だとは思えない。もちろん稼ぎもその人の価値の一部であっていい。ただし、あくまで一部である。もっと色んな価値を人に認めさせた方がいい。勤務先と企業規模で決まる価値なんて高が知れている。ぼくはこれを奇麗事だとは思わない。

いずれ、市場価値を自分という人間の価値だと考えるのは、自分を過小評価しすぎだと思う。

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