学校は人間をGoogle化するためにあるのではない

この高校生がこんな立派な意見を書けるのは、彼のいう無駄のお陰である。

無駄だらけの現代授業を最適化しよう - 高校生奮闘記 ・404 Blog Not Found:授業には適度な無駄が必要である

人生の目的が自らの脳をGoogle化することなら、情報収集、情報整理の効率化こそが至上命題ということになる。けれども、学校というところは別に博覧強記の人間辞書を量産するためにあるわけではない。卒業後、社会人として社会に利益を還元し、且つ、自ら幸福に生きるための知恵と処世術を身に付ける。初等から後期中等教育辺りまでの命題はたぶんこれだろう。だから学校という場所は、基礎教育の場として実社会よりは効率的だけれど、知識の取得に限っていえばあまり効率的ではない。そこで学ぶことは、2つ目のリンク先で「弾言」されているような意味でも有効だ。

そして、小飼弾氏がいう玉石混淆の「玉」は、何も学校のカリキュラムに含まれているとは限らない。誰にとって何が玉たり得るかは完全に未知数だ。教育が示すガイドラインを参考にしながら、そこからはみ出したり、まったく関係のないことに情熱を費やしたりする。そうして自らの中に蓄積されたものが、人それぞれの玉となる。教育が用意するのは、過去に実績のある、ある意味カタい玉の数々である。汎用性の高さからいっても、よく考えられている。けれども、その玉だけをHDDにコピーするように記憶したところで、より良い人生に資する可能性は極めて低い。

脳がネットワークに蓄積された知識を直接参照できるようなSF的設定を想定してみる。もう、「情報の入力」という意味での教育は不要である。それじゃあ、学校教育そのものが不要になるかといえば、ぼくはそうは思わない。やっぱりある程度除菌され保護された社会としての学校は必要になるはずだ。そこで、少なくともより良く生きるための知識の使い方を学ばなければならない。ついでに、そんな小さな社会でさえ様々な問題に直面するという大切な体験もついてくる。いきなり純粋な知識だけを持って社会に出て、絶望してしまうような事故はある程度防げるはずだ。

豊かな人生に知識は必要だ。けれども、どんな知識が必要かは、その人の望む人生によって異なる。教育がそれをすべてカバーするなんてことはそもそもできない。すべての子供の人生にとって最も効率的な教育を施すなんてことは土台不可能である。だから、とりあえず汎用性の高い教育という名の経験を積ませる。無駄だと思って自らの人生を効率化するのは、個人の仕事である。件の高校生は、現行の教育から、先のエントリーを書ける程度に学んでいる。ぼくなんかから見れば、ずいぶんと思慮深い高校生である。こういう人材を生む教育が間違っているとはぼくは思わない。

最適化されるべきは効率よりも情報の質の方で、ネットの導入もその意味でなら賛成できる。

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