文脈を解さない個性は不便な個性である

それを個性と呼んでも構わない、と個人的には思う。

それを個性とはよばない - 北烏山だより

文字は読めるのにその意味をまったく解さず、人と話せて単語の意味も分かるのに文脈が読めない。社会生活が成り立たず、ひとりの世界に生き、そんな生活を誰かが支える。支えを失ったときからゆるゆると死んでいく。ぼくはこれも個性的な生であり、個性的な死だと思う。だから、「このはしわたるべからず」と書かれた橋の真ん中を堂々と渡る一休さんの挿話を聞いて、桔梗屋は「この端わたるべからず」という意味の立札を立てたのだと「理解」する我が子を見て、うちの子は個性的なのだと喜ぶ親がいても別に構わない。ただ、そのまま育った子は苦労するかもしれないとは思う。

個性を「長所」の意味で使わない限り「できないのも個性」といういい方は可能だ。ただ、我が子が「正しく文意を読み取れない」ことを個性だと主張する親の真意がどこにあるのかは気になる。たとえば、我が子の読解能力が一般より劣っていることを認めたくないばかりに、うちの子は「一般的な読みができない」のではなく「非凡な読みができる」んだと主張しているようなケースは、子供のためにも良くないと思う。あっけらかんと「多少文脈に鈍感でも問題ないよ」と、できないことを肯定的に認めているなら特に問題があるとは思えない。人間、賢いことが正解とは限らないからだ。

実のところ、国語のテストで良く点を取る子供は基本的な読み書き能力と共に、「点を取るための答えを書く」という自ら置かれた状況の読解能力も身に付けている。つまり、ある程度の読みができるようになると、「その文学作品の作者がどういうつもりで書いたか?」を真剣に思い悩むのではなく、「この問題の答えとして何が求められているのか?」を考えるようになる。「このときの主人公の気持ちを80字以内で答えなさい」と問われて、本気で文学的課題に取り組んだりはしないのである。こうやって「文脈を読む訓練」を施された子供をつまらないと思う人がいてもおかしくはない。

ただ、学校をそうした「社会的コードの読解力」を育てる場所と定義するなら、それを画一的に教えて何が悪い、ということになる。特に、初等教育においては。なにしろ、「できない個性」を尊重するだけなら学校など要らない。文字を教えなければ、文字の読めない個性的な子が育つ。文字とは社会的コードの代表だ。このコードが読めないと社会性の相当な部分を失うことになる。それだけ一般からの逸脱も大きく、個性的な人生になるだろう。それが幸せか不幸かはわからない。ただ、今の日本においては、かなり生きにくいだろうと思う。一般的な考えの親がそれを望むとも思えない。

人はコードのみに生きるにあらず。されど、コードなくして生きることは困難だ。

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