学校を無菌室にすればいじめられっ子は救われるか?

学校の仕組みが生む同調圧力をいじめの原因のひとつと考える。一理あるとは思う。

学校の仕組みそのものがいじめの温床になっている - chanbaraの断片 - 断片部

ただ、こうした犯人探しは実はあまり役に立たないかもしれない。というのも、こうした要素はおそらく「いじめしか生まないもの」ではないからだ。もしも、「いじめしか生まないもの」が実際に存在するのなら、それは全力で駆除すべきである。ただ、現在の学校の仕組みは何も同調圧力だけを生んでいるわけではない。であれば、教育の効率やその他有用な要素からこの同調圧力だけを切り離すことは不可能だろうと思う。よしんば、同調圧力と呼ばれるものだけを首尾よく排除できたとして、その時、学校からなくなるものは果たしていじめだけだろうか、という疑問も残る。

また、「学校の仕組みそのものがいじめの温床」といういい方は、いじめのある環境すべてに敷衍できてしまう。たとえば「学校」を「社宅」や「会社」や「近所付き合い」なんかに置き換えても成り立つ。自分の力だけでは簡単に離脱できない場所というのは、生きている限りどこにでも現れ得る。そして、クローズドな社会性を帯びる場所には、大抵いじめに相当するような負のコミュニケーションが観測される。つまり、「学校」を「日本人社会」みたいなほとんど要因として意味を持たないものにまで置き換えられてしまう。いじめ問題がいつまでも解決されない所以だろう。

逆にいえば、ある集団から社会性を奪えばたぶんいじめはなくなる。同じご近所でも近所付き合いの希薄なマンションやなんかでは、あまりいじめの噂は聞かない。学校においても、個々の関係性を極力希薄にし、自他を相対的に見られないような環境を作ればいじめは減らせるかもしれない。学校に求められるものが読み書き算盤の類に限定されるのであれば、これはある程度可能だろう。パーティションに区切られた空間で、旧友はおろか教師とすら直接的なコミュニケーションのない環境で授業を行えばいい。終着点は在宅でネットワークを介した授業といったところだろうか。

実際には、現状で教育に期待される役割は、読み書き算盤に限定されてはいないと思う。いわゆる情操教育は道徳や保健体育といった授業を介してのみなされるものではないだろうし、他者とのコミュニケーションを半ば強制的な閉鎖社会で体験するという意味合いもあろう。学校以外への帰属という選択肢が用意されることは有意義だと思うけれど、学校への半強制的帰属に救われる人も少なくはないんじゃないだろうか。ムラ社会がほぼ絶滅し、核家族化や両親の共働きがここまで一般化した現状では、学校以外の場所で子供が社会性を身につけることは案外難しいように思える。

いじめは悪である。そんなことはわかりきっている。減らす努力はすべきだし、発覚したなら何よりもアフターケアを優先させるべきである。けれども、学校から社会性を排除し無菌室化してしまうというなら、社会そのものを完璧に殺菌でもしない限り、ただ耐性のない子供を量産するだけになってしまう。大人がすべきことは子供を無菌室で育てることでは、たぶん、ない。加害者にならないための情操教育、被害者にならないための処世術、被害者になったときの適切なケアなどなど、与えられるものはあまりに限られている。それでも、地道にやり続けるしかないように思う。

対症療法でしかないけれど、原因療法が現実的でないならそこで最善を尽くすしかない。

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いや、実は、元記事の元記事に登場している内藤朝雄って人は、そこまで考えているんですよ。
元記事の元記事で紹介されてる「いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体」て本が私のお勧めです。この中では、いじめを生む日本の中間集団全体主義の問題点(もちろん学校以外の集団でもいじめがあることも述べられてます)、その中でも学校という集団に特異的に現れる性質、それを今の学校制度の枠組みの中で解決する即効的政策提言、そして中長期的に学校制度そのものを大きく変革するプランまでが述べられます。それは決して学校を無菌室にするものではなく、社会性を養わなくて良いと言っているわけでもなく、むしろ今の学校が失敗している「共同体の学び」を真に実現することを目指したものです。是非ご一読を。

> raurublockさん
即効性のある対策から中長期的変革プランまでとは面白そうですね。そちらのブログでも紹介されていましたので、早速注文させていただきました。その提案がどの程度現実的なものなのか、或いは、現実にどこまでの影響力を持つものなのかは、今後の展開を見守るしかありませんが、とにかく届き次第読んでみようと思います。いじめや教育問題などまったくの門外漢なので、どうやら短絡的なエントリーを書いてしまったようですが、こうして面白そうな本を紹介いただけたことは幸運でした。ありがとうございました。

現代の問題として言われる「いじめ」は必ずしも優勝劣敗のシンプルな闘争でなく、言ってみれば高度に文化的な、隠微なゲームなわけですよね。
それに熟達することは○○流~~道に特有な煩瑣な虚礼を学ぶようにおよそ徒労でもあろうし、イヤな目に遭うのも人生の修行と言うには子供にとってはリスクが高すぎたりもする。

「同調圧力」というものがとりあえず掲げられてあるわけですが、もし犯人探しをするならば―そのいじめについてのはたらきを証明し、対策を導こうとするならば、もうすこしその概念について掘り下げ腑分けすることが必要なのでしょう。
それが社会性を学ぶことどの程度連続なものか、あるいは切り分け可能なものか。そのなかで明確に否定されるべき要素は何か、といったことが。


村上龍がどこかで、イジメや差別は目的を見失った集団を維持するために起きる…とか言っていました。
呉智英によれば、大学なり司法試験合格のために皆が血眼の予備校にはイジメも学級崩壊もあり得ない、知識・教養は商品であると割り切って商業倫理を徹底すればよいとのこと。

印象論の範疇ですが、わたしには実に頷けるものです。
わたしが受けた公的教育は職能にも学問にも通じてはいなかった。ただそこに何年かいることがカタギの人間として見られるための必須条件ですよ、というだけで。
米原万里がエリート共産党員の父の赴任先であるプラハの小学校で受けた教育のもようなど読み、羨ましくてなりませんでした。これが勉強だよ、と。

じぶんのこころにのこったことを書きなさい、ヨウ素液とくればでんぷんと書きなさい、論理的叙述の訓練も教養も科学の方法も一切含まれてない。世間知が身につくでもない。ただのアリバイ的拘束時間。そんなのは「平凡への強制」ですらない。

そりゃ内輪の足の引っ張り合いくらいしか能のない、一山いくらの豚がぞろぞろ出来上がりますよ。そういう意味で「学校の仕組みそのものがいじめの温床になっている」とわたしは思っています。ベタベタすることが強制されているというより、隠微な間合いの計りあいでもしているしかしようのない、気まずい、奇妙な空白がそこにあるから。

> nbさん
学校教育の目的とその実現可能性ということは、いま一度しっかりと問い直すべきなのかもれませんね。その上で情操教育や社会性の学習など実質的に不可能であるとか、功よりも罪が大きいとかいう結論になるならなくしてしまった方がいい。ただ難しいと思うのは、誰かにとっての改善が他の誰かにとっての改悪であるということが、往々にしてあり得るという点ですね。結局のところ、システムの優劣みたいなものはマクロな視点で評価するしかなく、そうするとミクロな視点では取りこぼされる子供というのがたぶんでてくる。今の学校の仕組みがいじめの温床だとして、それをなくした学校が誰にとっても今より素晴らしいだろうと安易に信じることは難しいですね。惰性的な現状維持など望むところではありませんが、変えるにしてもあまりに複雑な問題だと思います。

 悪い教師が悪い生徒を培養してるのが今の日本の教育の現状です。毒素を出すカビ(いじめ調査を拒否するような教員)を全部ゴミ箱に棄てない限り、シャーレ(制度)を変えても無駄ですよ。もちろん再度発生しないように対処する必要はありますが、悪人の手にかかればどんな制度だろうと崩れていきます。
 それともう一つ。
>加害者にならないための情操教育、被害者にならないための処世術、被害者になったときの適切なケアなどなど、与えられるものはあまりに限られている。
加害者を罰する。これがない限り、上記の物なんていくらあっても無駄です。というかこれが最初に浮かばないのが恐ろしいです。現実社会で考えれば、犯罪者を罰する制度の無いという事態がどれだけ異常かわかるはずです。学校という社会は、犯罪者が裁かれることはまず無く、教師にいたっては生徒を強姦しても匿名で終るケースが大半。
 そんな複雑な問題ではありません。悪いことをしたら罰を与える。だめな教師は片っ端から首にする。これだけですよ。

> 名無しさん
まず「加害者を罰する」に関しては、ぼく個人は普通に警察を介入させるべきだと思っています。学校外の実社会と同程度に。これは教育の問題というよりは、学校の因習や体質の問題でしょうか。学校がある種、治外法権化しているのは不思議でなりません。また、教師が悪いことをした生徒を叱るのは当然ですが、最近はそれすらもなかなか難しいようですね。
優良な教師の育成やダメ教師の基準など、おっしゃるようなことがそれほど簡単な問題だとは思えませんが、出せる膿は積極的に出すべきだとは、ぼくも思います。

わたしは信じていますよ。そこにはあまりにもあからさまな怠惰の魔がどっかりと居座っており、それを駆逐することは正義です。何も複雑なことはない。困難ではありますが。

【読み書きソロバン】を本当にみっちり教えなくてはならない。つまり【教養にアクセスする手続き・論述の方法・論理的思考】の基礎を叩き込まなくてはならない。教職者はその「叩き込み方」のメソッドに通暁したプロでなくてはならない。
人付き合いだの社会性だのはそれらをともに学ぶ生活の中で自然に身につきます。
社会道徳はそれ自体を独立にして子供に教えることはできない。必ず実例に即さなくてはならない。
学問する基礎、下地ができたらすぐに各々専門課程に分かれる。教養学部的教養は各自勝手に読書なり自分の専門を通して学べばよい。

明示的なルールに基づく競争の落ちこぼれはまた別の天地を求めればいい。学問が不向きだったら左官でも百姓でもやってみればいい。
あいまいな暗黙のルールによる空気イス取りゲームの場への馴致が、人ひとり潰れるまでの執拗なイジメや、短絡的な自殺や、引きこもり―社会不安症候群を惹き起こすのです。

> nbさん
悪を駆逐することが正義であることに異論はありません。もちろん。いじめのある環境が社会性を育てるんだから維持しろ、などといいたいわけでもありません。ぼくがいいたいのは現状から純粋に悪だけを抽出して駆除することの困難です。問題の「根本」はいつだってシンプルですが、表面化する諸問題はぼくにはあまりに複雑に思えます。少なくとも、ぼくの頭では現在の教育を最適化するシンプルで効果的な提案などできそうにありません。完全に能力不足です。
それから、初等教育の本道は詰め込みだろうとぼく自身は思っています。「人付き合いだの社会性だのはそれらをともに学ぶ生活の中で自然に身につきます。」というのもその通りだと思います。そして、その自然の中で「いじめ」も当然のように起こるんじゃないかとも思うわけです。そして、また今とは別種のイス取りゲームが始まり、今とは別なタイプの人が苦しんだり死んでしまったりするんだろう、と。その意味で、すべての個性を学校という限られた枠の中で掬いあげることはたぶん難しい。そこで、学校以外への帰属という選択肢が必要になってくるんじゃないか、とも。
いずれにしても、本エントリーについたnbさんをはじめ、みなさんのコメントで、エントリーを書いた時点よりもさらに色々と考えることになりました。なにやら、新たにエントリーを公開するたび、自らの無知無策を露呈する機会を増やしているようですが…。

初等教育の本道は詰め込み、というのがトライアンドエラーの密度を高めるべしといった意味合いであれば同意ですが。それと教導する側の確固たるプリンシプルの必要性ですね。

ほとんどイメージ対イメージの話になるかとも思いますが、わたしは、イジメは宿命的に人間集団についてまわるであろう業みたいなものとは考えません。
ケンカ、いがみ合いの無い集団はありえないし、弱肉強食の光景はどこにもあるでしょう。
でもいずれ平凡な人間ばかりの中で見えないババを引いた一人を残りの全員で追い詰めるみたいな(狭義の)イジメは、もうダメになった組織・集団が吐き出す特殊なエラーであると思っています。
(いや、現実の可能性、複雑さ難しさを言ってるのに一方的に「イメージ」を押し付けるなよ…ということになりますか。まあそのへんはわたし、いつもデタラメです)

漂流する救命ボートの上で、誰も取るべき進路について口を開かない。もし間違いだったとなれば自分のせいになる。誰も海洋知識=科学と経験知、生産的議論のやり方=民主主義を、知らない。本来の目的を全員があたかも「ない」ものとし、そこに生じた不安な空白の時間は、母船の沈没は誰の星めぐりが悪かったせいだ、みたいな無意味な内輪もめで埋められる。目配せの多数決で疫病神となった奴を殺してみたり。
そんなイメージを持っているのです。

> nbさん
なるほど、今更いうまでもないことなんでしょうけれど、そもそも「いじめ」の定義からして人それぞれなんですよね。ある程度「いじめ」の定義を限定することで、排除すべき要素の切り分けが容易になるということはあるかもしれないなと、少し思いました。
また、教員がしっかりとプリンシプルを持って児童らを教導するには、ある種の絶対主義が必要になるんだと思います。つまり「これは正しい」という確固とした態度です。逆にいえば、過度に相対主義的な態度やリベラルな教育姿勢が、もしかすると子供たちに目標の持てない漂流を余儀なくさせてきたのかもしれません。それは自由の使い道を知らない人間に無制限の自由を与えるようなもので、実は相当に酷なことなんだろうと思います。

 はじめまして。言及いただきありがとうございます。雑に書いたエントリですので、自分の考えを整理する意味もこめて追記をしておきました。
 そこでも書きましたが、「無菌室」という例えを使うとすれば、私の考えは「無菌室状態を作ろう」ではなく「糞尿バイ菌まみれの状態を、せめて最低限の衛生は確保されている状態にしよう」となります。この例えはこれで解りづらいかもしれませんが、その辺は私の中でも今後考えて書いていきたいと思います。

> chanbaraさん
最低限の衛生を確保するため、真っ先に排除すべき菌は何か。その辺りから真面目に考える必要があるんでしょうね。自分で書いた喩えからは少しズレてしまいますが、菌というのは必ずしも悪さをするものばかりとは限りません。多種多様な菌の性質をよく見極め、全体として最適な常在菌バランスを保つことが大切なんだと思います。

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