子供には自尊心も自信も要らないことを思い知らせるべき

あってもいいけれど、なくたって全然構わない。そういうものは多い。

自尊心や自信というのも、そうしたもののひとつだと思う。もちろん、子供に自信を持たせることができればいいこともあるかもしれない。けれども、せいぜいが「かもしれない」程度のものである。むしろ、役に立つのは自尊心や自信なんかよりも「積極性」ではないかと、個人的には思う。そして、「積極性」と「自信」は必ずしも相関関係にあるわけではない。自信なんかなくても「やってみよう」と思うことはできる。にもかかわらず、いたずらに「自信を持つことは大切だ」などとやるから「自信がないからできない」だとか、おかしなことになる。むしろ逆効果ではないか。

教育で「自尊心」や「自信」を植え付けようとすることは、それらを「持つべきもの」と規定することになる。つまり、「それでも自尊心や自信を持てなかった人」は、ますます委縮することになるだろう。教育が100%うまくいった例は、たぶん、ない。つまり、必ず落ちこぼれる子供は出る。必ず、だ。ぼくはそれを恐れる。自分を大好きだったり、自分に自信があったり、自分には生きる価値があると思い込んだりできる人は、確かに幸福かもしれない。けれども、そんなものは心のオプションにすぎない。自分を好きじゃなくても、自信なんてなくても、人は楽しく生きていける。

自分を好きになれないなんて生きている価値がない。自信がないからやらない。どちらも馬鹿げている。人は誰しもただ生きているにすぎないのだし、自信があるから何かをしているわけでもない。ぼくは自分の生に価値があるなんてこれっぽっちも信じていないけれど、案外楽しく生きている。何をするにも自信なんてないけれど、気が向いたことはとりあえずやってみるし、たとえ自信があっても気が向かないことは極力やらない。やるかやらないかを決めるのは、少なくとも「自信の有無」なんかではない。失敗して恥ずかしい思いはしても、それで傷付くような自尊心もない。

繰り返す。自尊心や自信みたいな内面的なオプションをまるで「価値あるもの」のように喧伝することは、それを持ち得ない人間にさらなるダメージを与える可能性がある。大切なのは自信のある人も自信のない人も、変に委縮せず生きられる内面を育むことではないか。その意味で、「自尊教育」みたいな言葉が子供の目に触れること自体、害悪だとぼくは思う。積極性を育む要素として「自尊心」や「自信」は必須でも重要でもない。自信を持ってやるのもいいけれど、ダメ元でやるのもいいし、そもそも結果なんて考えずになんとなくやるのでもいい。積極性自体必須じゃない。

まあ、こんなのは自尊心も自信も欠如したぼくの大いなる自己欺瞞かもしれないけれど。


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老婆心ながら、もう少しよく考えてからエントリーを書いたほうがよろしいかと思われます。
一般的な教育と、貴方個人の経験とを混同されているのでは。
>「積極性」と「自信」は必ずしも相関関係にあるわけではない。
貴方、すごくヘンなことを書いているという自覚、ありますか?
自信のない積極性とは、つまり「やぶれかぶれ」ということなのでは。
子どもたちにやぶれかぶれであることを勧めているのだとしたら、ずいぶんひどい。
>ぼくは自分の生に価値があるなんてこれっぽっちも信じていないけれど、案外楽しく生きている。
貴方自身がどうかということと、教育とは、別個のものとして考えるべきだと思うんです。貴方が今を楽しく生きているというなら、たいへん結構なことですが、しかし子どもたちが今をどう生きていくべきかということとは、全然違う話ですよね。
自分に自信があるとか、好きだとか、自尊心、価値、内面的なオプションなどと貴方は大仰におっしゃるが、そういった"高尚"な概念をとてもじゃないが認識できない子どもたちに対して、教育というものはある。自尊心や自信などという以前の、自分のこと、その内面を客体化することすら困難である子どもたちに対して、「まずは自信を持たせよう」という入り口の配慮に、疑念の余地が挟めるとはとても思えないんです。少なくとも現場においては。
子どもたちは、自信がなければ何もやりませんよ? 「お前なんていらない子だ、産まなければ良かった」と親に言われるということの対極に、自尊心、自信があるといえばわかってもらえるでしょうか。子どもたち側にとっては名状し難い概念かもしれないけれど、大人の側から見れば、子どもたちの生き生きとした姿は、自信であり、自尊心そのものだと実感できる。それがなくちゃ何も始まらないんです。そして子どもとは、まず始まらなくちゃいけない存在。だから、ふんだんに与えてやりたいとも思う。
「自尊心も自信も要らないことを思い知らせるべき」なのは、自尊心や自信がなんなのかということをきちんと理解している者でしょう。自尊心や自信がなんなのかということを弁えているのなら、意識的にやぶれかぶれであるのもひとつの生き方として尊重されていいかもしれません。
しかし子どもはそうじゃない。知らないし、そもそも与えられていない子たちも大勢いる。もっと想像力を働かせてください。厳しいことを言うようですが、貴方自身の鬱屈した精神を解説したいという不毛な欲望に、くだらない論理に、子どもたちを巻き込まないでください。

子供にとって、あるいは人間にとって「自尊感情」というものが大事だ、それが十分でないとまずいことになる…
という「理論」は、アメリカのどこやらの州では教育分野での広汎な実践の結果、公式に「うそでした」との答えが出ていたことと、どこかで聞いた覚えがあるのですが…

例によって、まず功名心旺盛な欧米の研究者や社会活動家が新しいタームを作る、
日本の「輸入業者」が日本語のおかしい翻訳本を出す、
それをネタ元に質量ともに薄っぺらい啓蒙書が濫造される、
常になんらかの「現実デコレーション・フィルター」を欲している層が飛びつく、
飛びついた中の一部の熱心な信者は時代がどう巡ろうと(単)純化された教義を墨守する

で、今回は都の教育関係者の中の「そういう人」がたまたま陽の目を見るめぐり合わせになったと、そんな感じなのかな。

この言葉は―元のコンセプトがどの程度繊細なものか知らないが、最終的に流布しているものは―自分かわいさで頭パンパンの奴ほど「不当な」境遇への不平不満を自己批判ふうの言辞や自傷行動で表すといった程度の現実の重層性をすら満足にフォローできないもので、もとよりまともに相手にする価値もないのだけど…
つまり真に受ける奴はもとより救えない、まともな奴は聞き流すということで「実害」は無いといえば無いのだろうけども。

たんびに、イラっとくるのは押さえようがない。こういうの。
私は「機能不全家族」で育ちました、あたし「境界性人格障害」だから、ウチの犬が「権勢症候群」で…
前後の事情を問わずとりあえず黙って一発殴りたくなるような。バカにつける薬はこれだけだ、とばかりに。

> 月森さん
まず、少しだけ前提を補足しておきます。ぼくは、“自尊教育”と名付けられた例の方針のすべてを否定的に捉えているわけではありません。具体的には「自己肯定感」や「自分の存在を肯定できる」という部分については、教育の現場で与えられるなら与えるに越したことはないと思っています。そして、それは相対的な「自己評価」などに依らない、根拠のない絶対的なものでいいと思っています。いい換えれば「自分の価値」みたいな得体の知れないものに左右されない、根源的な感情としての「自己肯定感」です。
また個人的な話だと非難されるかもしれませんが、ぼく自身がこうした根源的な「自己肯定感」を得ることができたのはずいぶんと大人になってからでした。下手なプライドだけは高く、失敗を極度に恐れる子供だったぼくは、積極的に一歩を踏み出すことができず忸怩たる思いに苛まれることの多い子供時代を過ごしました。つまり、自尊心は高いくせに自己評価は低くならざるを得ないというアンビバレンツの中で、月森さんの仰る「鬱屈した精神」を育んできたわけです。
もちろん、教育の現場で与えようとしている「自尊心」は、そんなくだらない種類の「自尊心」ではないのでしょう。或いは、ぼくのいう根源的な「自己肯定感」みたいなものを「自尊心」や「自信」という言葉で語っている人もいるのかもしれない。実際に都の“自尊教育”が現場の教師たちにそのように理解され、そのように運用されるというなら、ぼくとてその方針を認めるにやぶさかではありません。
月森さんは、ぼくの内面を「鬱屈した精神」と呼んではっきりと否定されました。そして、ぼくは大人になってようやく、そういう風に他人に否定されてしまう自分というものを、価値がないどころか社会に対して害悪ですらあるかもしれない自分を、それでも消してしまおうとまでは思わなくなりました。
けれども、相対的な「自己評価」や「自分の価値」に重きを置き、はっきりと定義されないままの「自尊心」や「自信」といったものをその根本に据えるような価値観が教育の現場に取り入れられたなら、ぼくのような「鬱屈した精神」を持ってしまった子供は、今まさに月森さんがそうされたように、暗黙裡に、そして、当然のことように否定されてしまうでしょう。実際、これまで自分でも否定的に捕らえてきた自らの過去を、もう一度改めて月森さんに否定されたのだなあと思うと、それなりの「自己肯定感」を得た今でも、少し哀しい気持ちになりました。
もちろん、月森さんの仰る「一般的な教育」は、ぼくのような社会に害を成すかもしれない精神や思考を持った存在を考慮に入れてすべきではないという意見もあるでしょう。今の社会がそうした方針を採用するというなら、残念ながらぼくはそれを受け入れるしかありません。

> N-Bさん
ぼくも何かで見かけた程度の知見でしかありませんが、確かにアメリカ辺りの研究では意図的な「自尊感情」の創出には否定的なものが少なくないようですね。とはいえ、ぼく自身はそれをもって、日本の教育現場における“自尊教育”なるものを全面的に否定しようと思っているわけではありません。ただ、世間に流布している“自尊教育”というものに対してはどうも疑問を感じざるを得ないというのが正直なところなのです。
ぼくが感じた疑問には、実はふたつの方向性があって、ひとつは、ニュース記事のブックマークコメントにも書いた(http://b.hatena.ne.jp/lylyco/20090311#bookmark-12472056)、少しN-Bさんの仰るのにも近い方向、そして、もうひとつがこのエントリーで書いた方向ということになります。おそらく、今回示された教育方針に肯定している人たちの中には、その辺りをキチンと織り込んだ形で「自尊心」というものを解釈している方もいるんだと思います。それを全面的に否定する気はありませんが、そんな非常に繊細かつ個別的な問題を、大上段な「教育方針」なんかにできるものかという点には、やっぱり大いに疑問を感じてしまいますね。そして、そんなものが画一的なスローガンになったとき、功よりも罪となることを不安に思わずにはいられません。N-Bさんが仰るように、実質的に「実害」がないのなら、まだいいのですが…。

はじめまして。

率直に言って、検索から辿り付いて、30代に発狂しない為の~といったコンテンツを読ませていただき、感動したので他いくつかのコンテンツを読ませていただき、どれもこれも感銘を受けました。
心に響く言説の数々と思います。これからも読ませていただきます。

> 馬頭親王さん
はじめまして。ここは何かと偏っていたり思慮が浅かったりと問題の少なくないサイトかとは思いますが、面白がっていただけたなら嬉しいです。これからも偏りや誤謬を必要以上に恐れず、思ったこと、考えたことをつらつら書いていきますので、暇潰しにでも読んで面白がってもらえればと思います。

はじめまして
月森さんの子供達の側からの意見は凄く大事なことだと思います。
言葉は、その使う人によって多少意味が違う場合があると思います。
僕の「自尊心」は自分を大切にするという意味でとても大切な要素だと思います。
子供達が時に抱く気持ちには、何となく意味も解からずなんだか不安に感じていたり、そういうときに、まずは自分で自分を大切にすることで一歩踏み出せるとしたらそれは素晴らしいのではないでしょうか。
自分自信を蔑ろにしていては、心が枯れてしまいそうに感じます。

失礼ながら
lylycoさんは老荘思想的なとても自由な意見で、僕も共感できると
思い途中まで読んでいましたが、月森さんの意見を見てそうだなと思うことがありました。
僕らが何かするにあたって、考慮しなければならないとすれば、普通一般の目線であり、情事なり、余裕というあり余った勢いは、時に悪い結果を生む恐れがあるということ・・・だと思いました。

> 聖さん
仰るとおり、「自尊心」をどう定義するかは人によって違ってくるでしょう。そして、ぼくが要らないと主張している類の「自尊心」についてはエントリーに書いたとおりです。そして、定義によっては積極的に与えるべきだろうということは月森さんへの返信に書かせて頂きました。聖さんも仰るとおりこうしたデリケートな言葉は人によって受け取り方が違ってくるのが当然です。現場の教員にしても同じでしょう。それは、件の“自尊教育”のありようが、教員個人の言葉の解釈によって大きく変わってくる可能性をも示唆しています。そこにスローガンとしての“自尊教育”に対する不安を覚えないわけにはいきません。
どうも誤解されやすい表現だったのかもしれませんが、ぼくは「子供たちの自尊心を奪え」とか「自信の芽を摘め」とか主張しているわけではまったくありません。自信を持てる子供は持てばいい。けれども、ぼくのようなに「自信を持たせよう」とされても持てない人間にとって、そうした空気、もっといえば圧力というのは相当に苦痛なわけです。自信を持ったり自分を好きになったりすることが大切だという無言の圧力が、それこそが善なるものだというイデオロギーの圧迫が、生き辛さを加速するというメンタリティは確実に存在します。だから、少なくとも教育現場は、持てる者は持てばいいけれど、持てない者も別に肩身の狭い思いする必要はないのだという、全人格的な承認が担保された世界であって欲しい。そういう思いでこのエントリーを書いたわけです。もちろん、ぼくのような一個人の語る「希望」は偏ってもいるでしょうし、誰かにとっては「悪」であるかもしれません。それを批判されることは甘んじて受けるよりないとも思っています。ただ、「普通」や「一般」という言葉の暴力性を日常的に感じながら生きている人間もいるんだということは知っておいて欲しいとも思うのです。

自信を持たせようというのに失敗したという事例の
被害者というわけですね。
その事例の問題を無視して、逃げてるだけではないでしょうか?

> noriさん
少し書き方が大袈裟だったかもしれません。ぼくは特別に自分が「被害者」だとまで考えているわけではありません。が、子供たちのメンタリティの多様性を思うとき、“自尊教育”のようなオーバープロデュースは、副作用が決して小さくないんじゃないかなと危惧しているのです。たぶん、無視していいほどに「特殊」な事例ではないだろうなぁ、という感覚があるので。

僕も、lylycoさんのように、下手なプライドだけは高く、失敗を極度に恐れる子供でした。積極的に一歩を踏み出すことができず劣等感や忸怩たる思いに苛まれることの多い子供時代を過ごしました。
そんな日々の中、自営業を始めて事業もうまく軌道にのらず散々たる状況でした。僕はやがて自尊心までなくしてしまいました。
そのときパワー不足を感じた僕は、新たに自尊心の大切さを知りました。その時、ある方のブログが目に留まりました。

>まずは自分でエネルギーを作り出して自分に補給する。
それが確実な方法です。
自分は重要な存在だと思えるような「言葉」を自分に対して言う、
自分は重要な存在だと思えるような「行動」を自分に対して行う、
自分は重要な存在だと思えるような「思い」を自分に対して思う。
この順番で行えば比較的スムーズに補給ができるようです。

という内容でした。
落ち込んでいた僕の心に少しパワーが戻った気がしました

今もそういう自分を大切にすることは大事だと思うことと
それが、自分への過大評価に繋がらないように・・・と思います。

最後に僕らが議論するときに思ったことは
「真実は最初の原則ではありません。真実はとても重要ですが、原則は非暴力なのです。
 真実はたくさんあって、各々間違いではありません。だから、真実をめぐって争わない事が大切です。
 真実について語るなら、やさしくやさしく非暴力で語りましょう。非暴力にピースフルに働きかける
 スキルがないのなら、その力がでてくるまで待ちましょう」
というある方の言葉を思い起こしました。
僕達はお互いの意見を自由に言い、そして皆で向上していけると信じています。
lylycoさん、これからも恐れず、思ったこと、考えたことを書いて下さい。

私は場合によっては豚箱覚悟で「ヤサシサ原理主義」のソフトファシズムに対しては暴力をもって対することで生きていこうと思います。反吐が出そうな物言いには反吐を吐きかけていきたい。
結局この話への疑念表明は、私のような乱暴な言い方でもリリコさん流の委曲を尽くした言い方でもどっちみち、せいぜいが「自分を誉めるなんてオコがましい」という「古き悪しき日本」のイメージの枠内の言説として受け止められるわけだ。信仰ということをしちゃってる人には…いや「荒らし」てスイマセンが

> nさん
ぼくの言葉が上手く誰かに伝わらないのは、ぼくが彼らに分かる言葉で話せていないという未熟のせいでもあり、バックボーンに共通性の少ない者同志の言葉は通じ難いというコミュケーションが本来的に持つ弱点のせいでもあるのでしょう。みながみな「『古き悪しき日本』のイメージの枠内の言説として受け止め」たとは思いませんが、伝わらなかったな、という思いが強いことも事実です。とういか、自尊心や自信を否定しているように受け取る人が少なくなかったのは完全に誤算でした。

なにこのサイトwwキモッww

前提は、自分の人生は楽しんで良いという事じゃないかな。確かに自尊心や自身があっても、自分の為に人生を楽しむ生きかたをしても良いと認められなければ、他利に生きる意味を見出すしかなくなるし、他人にプレッシャーを与える事となる。
「自分の為に人生を楽しむ生きかたをしても良い」と考えられる人はそう多くはないと思うんだが。特に優しい人は。

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