そもそも「いじめがある」こと自体は学校の落ち度ではない

自殺前に「自殺の練習を強要」 大津・生徒15人が回答
いじめ「先生は知っていた」 大津・中2自殺

この手の話になるとかなりの率で「いじめはなかった」という学校側の見解がまずでてくる。そのたびに、そんな阿呆な、と思う。自殺に至らぬまでも、いまどき「我が校にいじめはない」などと、本気で思っている学校関係者がいるものだろうか。脳にお花が咲き乱れてるんじゃないかと疑いたくもなる。すべての学校にいじめはある、とまではあえて断言しないけれど、かなりの率である、くらいには見積もっておくべきだろう。程度の差はあるにしても、だ。「我が校にいじめはない」などと安易に表明する学校は、「わたしたちの目は節穴です」と自ら宣伝しているようなものだ。まともな教育者なら、当然「いじめは常にあり得る」を前提として教育に臨んでいる。そういうものじゃないのか。

否、本気で「ない」と思っているわけじゃない、「ある」と知っていながら隠しているだけだ。そういうケースもあるんだろう。が、これがまたよく解らない。いじめというのはどこからともなく湧いて出るばい菌みたいなもので、なくそうと思ってなくせるものじゃないだろう。湧くときはどうしたって湧くものだ。だから「いじめがある」こと自体は誰の落ち度でもない。学校、職場、サークル、インターネット…人が集まるあらゆる場所に、それは湧いてくる。あらゆるいじめに有効な予防策は、いまのところ、ない。決定版といえるような撲滅方法もない。つまり、いじめへの「正しい対処方法」なんて誰も知らないのである。そんなものがあれば、この世からいじめなどとうになくなっている。

にもかかわらず、「ない」などと嘘をつく。そこにはなんらかの「合理性」があるんだろう。そう考えると、どうにも気が滅入ってくる。いじめがない学校は良い学校。いじめがある学校はダメな学校。そんな薄ら惚けた認識が、声の大きい一部の大人たちの間に蔓延しているのではないか。そうでなければ、何の落ち度もないのに「いじめの存在そのもの」を隠すメリットがない。いつどこに湧いて出るかわからない「いじめ」を、まるで関係ないもののように振舞う学校が「良い学校」なのか。単に「世間で騒がれるような事態に発展したことがない」か「隠蔽が上手い」だけかもしれず、文字通り「いじめがない」と信じるなどお人好しにすぎる。子を持つ親なればこそ、クレバーであって欲しい。

もちろん、子を持つ親が「いじめと無縁の環境」を望むのは自然なことだ。けれども、「いじめと無縁な学校」などはない。百歩譲って前例がなかったとしても、入学した我が子がいじめたりいじめられたりする可能性は十分にある。問題にすべきは、「いかにいじめを監視するか」と「いかにいじめに対処するか」である。どちらにも正解なんてものはない。この前提を共有した学校と親たちが、自ら最善と信じるやり方で臨むしかないのである。であればこそ、悲劇が起こったときに「いじめはなかった」と強弁するところから始めなきゃならない世の中はウンコである。「いじめが(自殺の)直接的な原因かは不明」だとか、もはや自己弁護にもならない戯言だ。死ななきゃ放っておいていいのか。

「いじめはあった」んじゃない、「いまもある」し「これからもある」。話はそこからだろう。

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