賢者と愚者の意味が逆転した中流下流社会

「バカ」も「賢い」もいくらでも恣意的に解釈できる言葉だ。

「女。京大生の日記。」7月30日のエントリーに端を発した言論‘フィッシング’フェスティバルで明らかになったこと。それは、古来「賢い」と思われてきた人たちが、現代では「バカ」呼ばわりされてしまうという現実である。もちろん、それが世界の総意だなんていうつもりはない。ただ、日本の学生や社会人の中に、結構当たり前に浸透している価値観であるような感触はある。どういうことか。元来、学問とは生産性を求められるものではなかった。生産は生産者の仕事で、いわゆる「賢い」人たちがすることではなかったからだ。それは端的に百姓や猟師や漁師の仕事だった。

学問は特権階級のもので、賢者とは生産者たちの幸福に「学」をもって貢献する人のことだった。宗教も科学も未分化だった時代には双方の要素を併せ持っていたかもしれない。ある種の知恵は生産者たちに生産性向上を齎しもしただろう。時代は下り、多くの人の幸せのベースがお金になった。すると、より潤沢に広くお金を分配できるシステムを創るのが賢者の仕事となった。ところが、社会は加速度的に複雑化していった。賢者の「学」を持ってしても、生産者たちを満足させることは困難になった。その代わり、昔に比べて「学」の獲得は誰にとっても飛躍的に容易になった。

生産者たるを任じる人間が「学」を手にした。彼らが「学」を生産性向上に役立てようとするのは自然なことだ。こうして利潤追求が学問の主な目的となった。もちろん、今の時代にも生産者階級に属さない人たちはいる。政を生業とする人たちなんかがそうだ。賢者として全体の利を追求すべき彼らは、けれども、複雑化した世界では満足のいく結果を示せず、また、自ら利を追求する姿勢を見透かされることで、賢者としての信頼や支持を失くしていった。そして今、生産性向上だけを目的とするなら必ずしも大学で学ぶような「学」は要らないという当たり前の地点に戻ってきた。

必要なのはただ売れる米を創る能力であり、効率的に米を作る技術である。米が売れれば耕地を増やせる。小作を雇える。彼らは田圃経営に専念し利潤を追求する。いつの間にか、彼らこそが「賢い」人間だといわれるようになった。コンサルなんかもこのレイヤーに含まれる。そして、米作りの役にも立たないような学問を修める人間は「バカ」だということになった。使えないと蔑まれる存在になった。学問が幸福の種を播く賢者を産まなくなったのだから、これは仕方のないことかもしれない。今の「賢い」人たちは少なくとも自分を幸せにすることには成功しているのだから。

地主が多くの小作を雇うことは、多くの生産者を幸せにすることだという人もいる。すべての小作を金銭的にだけでも満足させられるなら、この言葉には一定の真実があろう。けれども、残念ながら今のところ、そこまで「賢い」地主はあまりいないようだ。IT長者の多くは、IT土方などと揶揄される小作を多く抱えることで成り立っている。彼ら全員に満足な利益を分配できるほどには利益を上げられていない経営者が多いということだろう。つまり、現代の「賢い」人というのは、自力で幸せになれる人、というほどの意味しか持たない。賢者の影響範囲はここまで極小化した。

そして大学は、昔「バカ」が行くとされた職業訓練校としての役割を求められているらしい。


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