不幸のことだけを考えて生きよう

よほど考え抜く覚悟でもない限り、幸福について考えるべきではない。

考えることと感じることはどうしても重ならない部分がある。嬉しい気持ちになったとき、その根拠を探す必要はない。恋人ができて嬉しい。そんなとき、恋人ができるとなぜ嬉しいのだろうか、などと考えてもロクなことにならない。なぜなら、根拠を探れば探るほどそんなものはないという真実が明らかになるからだ。考えることで幸福は解体され、その価値はフラット化される。考えることは対象を客観化することだろう。自分という人間は何に幸福感を覚えるのか。分析結果は味気ないものにならざるを得ない。考えるな、感じろ…なんて陳腐な決め台詞も馬鹿にはできない。

たとえば、恋人はルックスやデートやセックスや世間体や自尊心など、諸々の交換可能なありふれた要素に解体されてしまう。抽出も分析も解体も、すべては「一般化」という手続きの上に乗っかった行為だろう。だから、「恋人がいる自分に酔ってるだけだろ」とか「セックス相手ができて嬉しいだけじゃん」とか、陳腐な分析になるのは当たり前である。もっと凝った分析も可能だろうけれど、所詮レベルの違いにすぎない。どれほど精密であっても「一般化」である以上、幸福感の解体は不可避だ。いずれ、あなたは入力Aに対してBを出力しているだけだ、という話にすぎない。

現実には、各要素の組み合わせ、出現タイミング、抽出不可能なディテール、相互流動的な関係性や彼我の内に引き起こされる精妙な変化など、「恋人ができた」という現実に含まれるあらゆるものの総体が奇跡的に幸福感を生むのである。どれかだけを取り出してみても、それは幸福の正体なんかではないし、どれが欠けてもそれとまったく同じ幸福は再現できない。つまり、ある特定の幸福には一般性も再現性もない。ただ一回性の奇跡であり、しかも常に変化し続けている。考えて幸福の要素を取り出した気になって、自らの幸福感に疑問を抱くなどいかにもナンセンスである。

不幸についてはどうか。おそらく、大抵の人にとって不幸の閾値は幸福に比べて低い。なんとなく不幸だと感じている人は、なんとなく幸せだと感じている人よりもずっと多いように思う。だから、せっかくの幸福をわざわざ「考える」ことで台無しにしてしまうのではなく、不幸の方をこそ「考える」ことでバラバラに解体し、陳腐化してしまえばいい。お金持ちじゃないことがなぜ不幸なのか。モテないことがなぜ不幸なのか。そこに含まれる要素をひとつひとつ検討し、不幸の根拠を探してみる。自分を不幸にしているものは、結局のところ何なのか。自分は本当に不幸なのか。

よくよく考えるべきは幸福についてではなく、つまらない不幸についてである。

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comment - コメント

一見ネガティブなタイトルだけど、
最後まで読むとポジティブに転化されてる。
見事です。

> 想像者さん
基本的にはポジティブを志向しているのですが、かといってあからさまな自己啓発みたいなものにはいまいち馴染めないんですよね、個人的に。だからぼくはネガティブな部分をベースにしつつ、それをいかに自分の中で転換するかということに関心を持っていて、こういう書き方になっているのもそのためだったりします。

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