自分を亀甲縛りして気持ちよくなることこそ本当の自由

自由という言葉にはかなりの幅がある。

あなたに自分の好きなことをする自由な時間を取り戻す20の方法 - GIGAZINE
404 Blog Not Found:自由に関して知っておくべき3つの不自由、1つの疑問、そして2つの注意点

ひとつめのリンク先のタイトルにある自由というのは、精々「忙殺されない」くらいの軽い意味の自由だ。いまだ流行っているらしいライフハックが好んで扱うタイプの自由である。他愛ないといえば他愛ない話だ。これに対して、ふたつ目のリンク先で語られる自由は、もう少し広い意味を含んでいる。哲学寄りの自由といってもいい。ここでの小飼弾氏の視点は、極めて個人的な自由について考える、という意味ではとても参考になる。ただ、自由を考えるときに避けて通れないはずの「他者」の存在がスッポリと抜け落ちている。少し補足して語り直してみたい。

ふたつめのリンク先で小飼弾氏が挙げている3つの不自由は、そもそも不自由として認識されるべきものではない。壁を通り抜けられないとか自由に空を飛べないとかいうのは、少なくとも哲学的な意味での自由とはそれほど関係がない。哲学的な意味での自由というのは、要するに人対人の問題だとぼくは解釈している。そして、普通、人が悩んだり苦しんだりするのは、どちらかといえばこの哲学的な意味での自由に関してだろう。であれば、物理的制約なんて瑣末な問題にすぎない。およそ自由という言葉には、言外に「幸せのための」という含意があるはずだからだ。

その昔、思想家アイザイア・バーリンは自由を「積極的自由」と「消極的自由」に分類した。大雑把にいえばこうだ。積極的自由は主体的に行動する自由、消極的自由は他者に強制されない自由。小飼弾氏のいう奴隷の自由は消極的自由の代表的なもののひとつだ。一方、自由意志の下で主体的に行動することは、常に他者の自由を毀損する可能性を帯びている。まさに奴隷と主人の関係である。この辺りはとてもデリケートな問題である。いずれ、自由の問題というのは「意志」の問題であり、「意志」同士の軋轢の問題でもある。つまり、個人だけの問題ではない。

他者の存在は軋轢を生む。けれども、人はたぶん独りでは幸せになれない。では、自分を不自由にしている他者とは誰か。ここはよく考える必要がある。たとえば、自分が「会社に縛られている」と感じるとき、本当に自分を縛っているのは誰なのか。それは、上司なのか、同僚なのか、取引先なのか、或いは、養うべき家族なのか。そして、最後に疑うべきは自分である。自分を縛っているのは自分自身、というは存外よくある話である。問題はその縛り方だ。「自由」というのは「何にも縛られないこと」ではない。もちろん「好き勝手に他人を縛ること」でもない。

正解は「好きなように自分を縛ること」だ。いかに気持ちよく縛るか。それが肝要である。

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