負のスパイラルから抜け出すための第一歩

相対的貧困が現状の不幸を説明し遂せているとは、もちろん思っていない。

今の日本の貧困は相対的貧困でも体感貧困でもないんだよ - 狐の王国

前エントリでは非コミュ、非モテを取り上げて相対的貧困との構造的な相似を見い出そうとした。本当をいえば、相対的不幸という言葉に敷衍してしまおうかとも考えたのだけれど、あまりに具体性を欠くと思ってやめてしまった。そのことを少し書いてみる。その前に、最低限の前提を。不幸という言葉は幅を持ちすぎている。彼女に三行半を叩き付けられたとか、恋人が事故で死んでしまったとか、暴漢に襲われて半身不随になってしまったとかいうある種非日常的で直截な不幸は、ここではひとまずおいておく。扱うのは日常そのものが不幸だというケースである。

たとえば、孤独は不幸か。不幸だろうと思う。ところが、これには難しい問題がある。少なくともぼくには「孤独ではない人」というのがうまく定義できない。「ぼくは孤独だ」というとき、「みんな孤独なのではないか」という疑問は消えない。だから「自分だけが」という劣等感には繋がらない。自分だけが孤独だというのは、周りは違うと感じる相対的孤独感の問題である。友だちがいない、彼女がいない、ということとは本質的に別の問題だろう。誰でもいいから友だちが欲しいというなら、ぼくと友だちになればいいだけのことである。何も難しいことはない。

孤独感なんてどうでもいい、恋人のひとりもできそうにないことがウンザリなんだよ、という人もいるかもしれない。はっきりいってこれは恋人を作る以外に逃れようのない劣等感である。この劣等感に合理的な理由はたぶんない。だからこそ厄介である。「普通の人」は恋人くらいできるものだし、それはできないよりも幸せに違いない、という思い込みが不幸を生んでいる。いい換えれば、恋人もできない自分は人より劣っているという自己嫌悪や無力感だろうか。つまり、不幸のポイントは実は「普通の人より劣っている」といういわれのない劣等感である。

いわれのない劣等感は、必要以上に人を孤独にするんだと思う。劣等感が自ら人を遠ざけ、孤独を感じる時間を増やす。上のリンク先の言葉でいえば、必要以上に「暇との戦い」を強いる。これは恐ろしい視野狭窄を生む。誰かよりもお金がないことが不幸、誰かよりモテないことが不幸、誰かより友だちが少ないことが不幸、誰かよりもうまくコミュニケーションできないことが不幸…。モテに非モテの気持ちは分からない。その通りだ。けれども非モテにもモテの気持ちは分からないのである。どうして「自分の方が劣っている」と自分で決め付ける必要があるのか。

そんな価値観の貧困から逃れるためには、自ら孤独と決別するよりない。お金がないと友だちができないなんてことはない。イケメンじゃないと恋人ができないなんてこともない。千円の外食がキツいならそういえばいい。缶ジュース一本でダラダラ喋るのも、ファミレスで千円払ってダラダラ喋るのも大して変わりはない。別にIMでチャットだって構わない。人と交わるということは、自分以外の価値観に触れることだ。相手に興味を持たなければ意味がない。相手がいても自分しか見えないなら孤独や劣等感は消えないだろう。孤独は環境だけが生むものではない。

そして、本当の価値観の多様化は幸福のありようを多様化することでもある。

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comment - コメント

劣等感の袋小路、孤独感をはらうにはとにかく他人と触れ合うしかない。まずは、たとえネット経由でもいいじゃないか。
本当にそうですか?

実際に、現前の孤独から大量のヒマ人がネットに逃れて来ている。そして同類同士のコミュニティを形成する。「自分みたいな、あるいは自分より悲惨な奴はいくらでもいるんだ」「自分みたいな奴は、やっぱり必ずこういうふうになっちゃうんだ」…安心と、絶望の確認の両方を繰り返し受け取ることになる。
ダベりに来ておいてあえて異見を求める人々は見たことがない。受け入れがたい考えは棲み分ける・無視する・不毛に叩き合う、のいずれかしかない。

そこでは何も(人生の転機になるような、本当の意味で新しいことは)起こらない。
劣等感のスパイラルは止まらない。

私が自分のために持っている処方箋はネットに期待するようなものではないです。
孤独感や劣等感に害されないためには(捨てるには、ではまったくない)、他人と多様な価値観と触れ合うことではなく、自分の決断というものを神聖なものとして扱おうと努めることです。まず自分の価値観に、論理でもって芯を入れることです。

なんていう粗雑な言い方では他人には意味不明か。ここでその説明を延々垂れ流すせばただの迷惑行為なので、いずれ不躾ではあるものの、ひとまず冒頭の疑念の表明にとどめておきます。

すみません、ちょっと補足ですが、このエントリの結論がネットのススメだけと斜め読みして反発してる訳ではないです。
「不幸を減らすためにすべきこと」へのコメントに書いたような「敗北を先取りする人々」に対して、他者と触れ合えというのはあまりに無効であると言いたいのです。

> nbさん
確かに自分の価値観を強化するという処方箋が有効なケースはあるでしょうね。電波男の人なんかはその一例かもしれません。自分を生かす価値観を自力で持ち得る人にはとても有効だと思います。
けれどもこのエントリーで問題にしたのは、非モテはダメ人間、というようなお仕着せの価値観を、自分の価値観として抜きがたく持ってしまった人たちなのです。さらには、孤独な戦いでそんな価値観を強化してしまった人たちです。放っておいても、それ以外の価値観に気付けない。自分を貶めるだけの価値観を後生大事に抱え込んでしまっている。
だからぼくは、たとえ有効性に疑問があっても、他者という異物に触れよという処方箋を書くしかなかった。少しでも自分を生かす価値観を得るために、それを自力で生み出せないなら、まず外を見て参考にしてみればいい、と。繰り返しになりますが、それは先取りされた「敗北」を、絶対的なものとしない価値観を見出して欲しいという願いでもあります。もちろん、実に弱々しい提案だと思います。これが最善にして唯一の方法だなんて主張するつもりは毛頭ありません。むしろ、自らの無策を露呈しているんだとさえ思っています。

頭がいい人とは貴方のような方のこと だと思いました。
 読ませて頂きました。おもしろかったよー。

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