軽度の非モテが無意識に重度の非モテを追い詰める悲劇

この人が何故こんな義憤に駆られているのか分からない。件の非モテ脱出法は極論だろう。

非モテに自己責任論はなじまない

ぼくは以前、美容院に行けというエントリーを書いた。けれどもそれは、異性と普通に話せて、友だちになれて、家にまで呼ばれて、あまつさえ告白とかできちゃうような人に向けて書いたわけではない。匿名氏のように異性を含む他者と普通にコミュニケーションが取れる人を非モテとはいわない。まあ、確固とした定義のある言葉じゃないから、そういい切っては語弊があるかもしれない。いずれ、非モテだとしても軽度だ。ただキョドらずに告白することすら困難で、でも切実に彼女や彼氏が欲しい。そんな人に向けられたアドバイスに目くじらを立てる理由が分からない。

別に脱非モテ論が素晴らしいというつもりはまったくない。くだらない人にはこの上なくくだらないだろう。ただ、その拒絶反応の示し方が少し気になる。もしかすると、自分の「誠実な」恋愛観を否定されたようにでも感じるのだろうか。それなら心配はいらない。それらのアドバイスは、匿名氏のように恵まれた人に向けて書かれたものじゃない。恋人どころか異性の友だちすらファンタジー、エレベーターで異性の同僚と鉢合わせても挨拶さえ不可能、せいぜいヲタ友がひとりかふたりいるくらい。少なくともぼくは、これくらいのレベルを標準非モテと想定して書いている。

気になることはまだある。「誠実な」恋愛とは何か、ということだ。顔が好みで声をかけた。巨乳に惹かれて仲良くなった。体目当てでナンパした相手と恋に落ちた。合コン相手と隠れヲタ趣味で意気投合。これらは不誠実か。毎日会社で顔を合わせる内に好きになった。いつも周囲に気配りできるところに惚れた。子どもたちと楽しそうに遊ぶ様子にぐっときた。これならどうか。相手をどれだけ深く愛するようになるかは、結果であって心構えではない。偶然の出会いの中で自然と誰かに惹かれていたというのは幸運なだけで、ナンパや合コンに比べて誠実なわけでは全然ない。

そもそも好きになるというのは、相手の中に自分好みの性質を見いだすことだ。最終的には、相手から感じ取った色んな要素を総合的に判断して、好きになったり嫌いになったりどうでもよくなったりする。それら要素の中には外見や立ち居振る舞いや声や自分への態度や言動などなど、色んな情報が含まれる。そして、どの要素により惹かれるかは人による。その個人差に誠実も不誠実もない。「外見が好き」も「話が合って楽しい」も、所詮は属性萌えである。じっくり付き合えば付き合うほど、判断の要素が増える。それだけのことだ。それを誠実と呼びたいなら呼べばいい。

ただ、その誠実を他人にまであてはめるのはちょっと違う。数を撃つ。それは物理的な出会いやキッカケの話で、心の問題ではない。好きになるには相手がいる。偶然の出会いの中に恋を見つけられた人は、出会いに努力を払わずに済んだ幸せ者だ。偶然の出会いに恋を見つけられないなら偶然ではない出会いを求めて努力する。それが不誠実か。幸運な人間が不運な人間の出会いの努力を非難する。酷な話である。たまたま3億円拾った人が、せっせと宝くじを買う人を浅ましいと非難するようなものだ。もちろん、不正をして3億騙し取ったというなら非難されるべきだけれど。

匿名氏の恋愛観は美しいかもしれない。けれども、重度の非モテに必要なのは理想の恋愛とかいうレベルの処方ではないだろう。まず第一に、恋愛やコミュニケーションの精神的ハードルを下げることだと思う。自分にとって人と付き合うとはどういうことか、他者を愛するとはどういうことか、そんなことを誰とも付き合う前に、誰とも恋愛関係になる前にいくら考えても仕方がない。匿名氏のいう通り、相手は生身の人間なのだ。どんな出会い方をし、どんな関係になるかは、その場になってみないと分からない。匿名氏の美学は恋愛のハードルをあげてしまう。非モテを縛る。

軽度の非モテが重度の非モテを切り捨てるような価値観を賞賛する気にはなれない。

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/391

comment - コメント

「数撃て」というのを、男女の仲は発端ではなくその後が肝腎という、単なるオトナの常識を述べたレトリックと受け取るか、具体的なハウツーと受け取るかで反応が違ってくるのでしょうね。

あえて私も「具体的なハウツー」の方を考えてみると、笑顔が使いこなせればいいんだと思う。

「非モテ」は基本的には恋愛云々の問題ではなく、軽重の差はあれ対異性に限らない対人恐怖症なのだと思います。
であればこれは一部の人の悩みというより日本人の国民病なわけで。
俗流比較文化論の域を出ませんが、ガイジンは「害意のないこと」を示すために笑顔を「使い」ますね。
日本人は意図的ににっこりするのが苦手だ。「作り笑い」じゃないかということで。
生理的反応ではなくボディランゲージとしての表情を能動的に使いこなせればいい。

例外的に満面の笑顔を「使える」日本人というのは、例えば芸能人だったりするわけで、アコムのCMの小野なんとかさんなんかそれだけで食えてる。まあそれ自体を売ってしまうと賞味期限もありますが。
どこまでも技術の問題として、じゃりン子チエのごとくニカっと笑えたらそれだけで世渡りできそうな気がします。
技術的に最も洗練された笑顔とはつまり無邪気な(ように見える)笑顔なのであって、大げさに手を叩いてウケたりするのはむしろ視線を外したいがための小技なのではないか。

わたしもわりと無表情と言われるタイプの人間なのですが。
自己啓発セミナーならぬ「笑顔教室」があればいいのに。金払いますよ。
一発でも「撃って」みる気になった非モテの人にとってもさぞ強力な武器になることでしょう。むしろブサイクでやぼったいのがいい感じにミスマッチになったりして。

*笑顔になることで心も明るくなる式のセラピーの類ならよくあるんですけどね。
純粋に技術的な雄弁術と同じ意味での、ボディランゲージとしての表情教室というのは無い気がする。

> nbさん
笑顔教室、面白いですね。ざっと調べた感じだと…
http://www.ne.jp/asahi/egao/kyoshitu/
↑この辺りはセラピーを謳いながらも、講義内容(http://www.ne.jp/asahi/egao/kyoshitu/naiyou.htm)を見る限り仰るような目的に近い気がします。売り文句に若干のオカルトが混入してるのは、当世の若い女性に向けた細かいプロモーション戦略でしょう。また、自己啓発色を前面に出しているのも、商売としてただ笑顔の技術を教えますじゃ人が集まらないからだと思われます。
コミュニケーションのための武器としてこの手の藁に縋ってみるのも、非モテには案外有効なのかもしれません。そうやって行動を起こすだけでも、対人関係に自ら巻き込まれていく訓練になりますしね。まあ、つまらなかったら多少のお金を失うことになるとはいえ、7,500円くらいならそれほどの痛手でもないでしょう。
笑顔の練習なら鏡で自主トレという手もありますが、これは結構根性が要りそうです。自分のぎこちない笑顔を延々見なくちゃならないというのは考えるだに苦痛ですから。…にしても、この手のテクニックは最初からうまくはできなかったりするわけで、思い切って実践してみたら「笑顔がキモい」なんて心無い罵言に遭ってすべてが無に帰する、なんてこともありそうで怖いですね。

やはり形のないものを売りつけるには、そうやって顧客を信者にしてしまうのが手っ取り早いのでしょうね。
スタニスラフスキーシステムみたいなのを下敷きにひたすら実践的カリキュラムを練り上げた講座があったら本当、わたしも行ってみたいのだけど。

「笑顔がキモい」というカウンター食らってあえなく撃沈…というのは正直想定しなかったけど、確かにそれが最大のネックか。
「笑顔がぎこちない人の互助会」を作って、互いを練習台に技術を磨き、心無いカウンター食らった人はみんなで愚痴を聞いてあげる…とか。そうするとやっぱり変なカラーが付いてくるけども。けっこう真剣に妄想しています。

重度の非モテとか、なんかこの前の「承認」の件にせよ、アメリカを見習って互助会を編成すればけっこう効果ありそうな気がします。
アダルトチルドレンとかアルコホリック・アノニマス、DV被害者の会みたいなの、直輸入でやってるものはそれなりに効果をあげているようだし。
少なくともネットでグチグチ言い合うよりははるかに前向きです。

*まあわたし自身が、旗振り役みたいなのがとことん嫌いな人間であるからこそ、そういうムーブメントに憧れているという、きわめて情けない現実なのですけどね。
同時に自閉的な議論に明け暮れる人への同属嫌悪も含めて。

> nbさん
愚痴を聞いてあげる会ときいて、映画“ファイトクラブ”で会員同士が抱き合いながらオイオイ泣く自助サークルを思い出してしまいました。ああいった発散機能というのが必要な人は一定数いるんでしょうね。ただ、個人的な皮膚感覚として、日本人の多くはまだ、そういう「特別な人たちが集まる会」に対して消極的な気がします。まあ、欧米人にもそういう人は多いのかもしれませんが。それでも、なんとなく欧米の場合は家族や周囲の親しい人が連れて行くイメージはありますね。特にアルコホリック・アノニマスみたいなものだと、本人は「自分はアル中じゃない!」っていう人が多いみたいなので。一方で日本の場合は、たとえば肉親をそうしたところに連れて行くこと自体、かなりの精神的な抵抗があるように思います。そう考えると、重度の非コミュが自ら非コミュサークルに行くのも、非コミュを見かねた親兄弟が非コミュサークルに連れて行くのも、それができるのはかなり少数派かもしれないなぁという気がしますね。逆にいえば、その辺りの精神的障壁を取り除く工夫を凝らしつつ、そうした自助組織が成り立つなら案外面白くなるかもしれません。

ともあれ、旗振りが合わないのはぼくも同じですね…。ネットでグチグチ言い合うというのも苦手なので、だいたい議論を外から眺めてメタ寄りな意見を書くに止まっています。ぼくにはたぶん人とガップリ四つに組んで議論を続けられるほどの忍耐がないんだと思います。普通に暮らしてはいますが、これも非コミュの一形態なんですかね。自分ではよく判りませんが。

美容院に行く髪がない…

>少なくともネットでグチグチ言い合うよりははるかに前向きです。

アル中や禁煙みたいに中毒者が溢れかえってる会は問題ないのですが、「承認」を求めるような会の主催者は、実はとんでも宗教(カルト~既存の有名宗教までさまざま)だったり、困った家族の頼みで金と引き換えに患者を拉致監禁している連中なのが現状です。何度か参加してみましたが、参加者は皆一様に何かがおかしく、主催者は会に不満があるなら金を置いて出てゆけというのばかりでした。あんな場所で笑顔やコミュニケーションを学んでも、おそらく出来上がるのはカルトやねずみ講にはまった人たち特有のそれでしょう。もてるもてない程度の軽度の問題ならネットで愚痴っている方が、よっぽど健全で前向きです。もしどうしても何とかしたいなら、餌を片手に野良猫と練習する方がまだましかも。

> 名無しさん
となると、やっぱり単純に技術の修得などある程度客観的に評価可能な成果を売りにしたもの以外は、真贋の見分けがつき難いという意味で難しいと考えるべきなんでしょうね。個人的には宗教的なものだろうが何だろうが、当の当人が救われて金銭的な負担についても納得できて周囲にも大して迷惑をかけないというなら、別にあっても構わないんじゃないかとは思いますが。まあ、あまりに詐欺的というか効果の期待できないものばかりが多いとなるとそうもいってられませんね。ところで、人が相手だとうまく笑顔が作れなくても、猫が相手で周囲に人がいなければ自然と笑えるって人は結構いるかもしれません。

コメントを投稿

エントリー検索