純粋まっすぐ非モテ君に恋愛が不可能であることの証明

人間関係というのは恐ろしく複雑でマージナルなものだ。

純粋まっすぐ非モテ君 - E.L.H. Electric Lover Hinagiku

ここでいう「純粋まっすぐ非モテ君」の悲劇は、理想の前提となる「1bitな世界観」が現実には成立し得ないという事実にある。これは、妥協して現実と折り合うべきだとかそういう次元の問題ではない。おそらくは現実の誤認、或いは、現実に対する無知によって理想の構築に失敗しているだけの話である。「鳥のように空を飛べたらなぁ」というのは、夢想であって理想ではない。つまり、純粋まっすぐ非モテ君が考えるような「理想の恋愛」はただの「夢想の恋愛」である。「おれは目を見詰めるだけで、相手のすべてが分かるんだぜ」という人にしか実現し得ない。

たとえば、純粋まっすぐ非モテ君が女性を口説くには、その相手のことを「本当に好き」である必要があるという。いきなりの難問である。ぼくは女性のうなじや二の腕が好きだ。本当に好きだ。大抵の女性にはうなじも二の腕もある。好みの形というのはあるけれど、それにしても当てはまる人は多い。だから、道行くうなじのキレイな女性に「好きです」といっても、これは嘘にはあたらない。「好きです(うなじが)」の( )内を省略しただけのことである。なんてことを書くと、そんなものは詭弁だとか屁理屈だとかいわれるかもしれない。本当にそうだろうか。

次の中から「本当の好き」を選びなさい。「1.好きです(顔が)」「2.好きです(ぼくに優しくしてくれるところが)」「3.好きです(颯爽と働く姿が)」「4.好きです(ぼくを好きだといってくれるところが)」「5.好きです(話していると楽しいところが)」…純粋まっすぐ非モテ君の答え、「すべて本当ではありません」。1bitの世界観ではそう答えるしかない。そして、おそらく正い答えはひとつだ。「好きです(すべてが)」。はたして、これは成立可能だろうか。本当に誠実にすべてが好きだというためには、まず相手のすべてを知る必要がある。

すべてを知りもしないのに、すべてが好きですなどというのは欺瞞だ。現在の彼女はもちろん、まだ見ぬ将来の彼女まで見通して初めてすべてである。将来好きじゃなくなるかもしれないのにすべてとは片腹痛い。1bitの世界観でそんな欺瞞が許されるはずはない。少なくとも口説く前に、デートやセックスはもちろん10年やそこら同棲してみる必要がある。それでもまだまだ十分とはいえないだろう。いや、冷静になってみればすべてなんて一生かけても分からないんじゃ…。待てよ、そもそも好きかどうか分からない相手とデートやセックスや同棲をするなんてダメだ!

交際するためには、まず、すべてを知らなければならない。すべてを知るためには、まず、交際しなければならない。不可能性の証明終。普通に恋愛をしている人たちだって、こうした「鶏と卵問題」には多かれ少なかれ悩まされているのである。だから、「お友だちから」とかいってみたり、告白が先かセックスが先か悩んでみたり、プロポーズのタイミングに迷ってみたりするのである。彼らは決して理想を諦めて現実的な対処法を探しているわけではない。そもそも「理想的な関係」とは何かというところから迷い、悩んでいるのである。全員がとはいわないけれど。

いずれ、純粋まっすぐ非モテ君は「夢想」ではない「理想」を模索すべきだとぼくは思う。


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非モテとは男女関係のルールを勘違いしている男たちのことだった - ハックルベリーに会いに行く

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逆に見れば、わざと行き止まりの論理を掲げることで現実から逃げているのかも。どこまで意図的にかはわからないけども。
「やらない言い訳」、わたしもよくやってしまいます。事は恋愛沙汰に限らない。

余談というか話が逸れますが、リンク先の
「非モテとは男女関係のルールを勘違いしている男たちのことだった」について。
男女の仲はゲームだ化かし合いだと言うのは、その姿勢にシンクロする相手にだけ通用する特殊解であり、「純愛まっすぐ主義」とはパラレルでしかない。

各々がどのくらい本気で自分の旗印を掲げているのかが、非常に見極めにくいところであり、ちょっと興味をひかれるところです。

*まあ“ハックルベリー”の真意は、「純愛まっすぐ主義」を「他人に完全を求める幼児的態度」と見て、自分は自分・他人は他人という原点をまずはっきりしろ、というようなところにあるのかもしれませんが、ここは字面どおりに読んだ上で。

> nbさん
「やらない言い訳」の厄介なところは、意識的無意識的を問わず、本質的には自分を騙るためにやるものだってところでしょうね。だから、大抵の場合、傍から見ると見苦しい上に、本当のところは自分を誤魔化し切ることもできないという。まあ、本心から自分を騙し切れるなら有効な自己防衛手段なんでしょうけれど。ぼくも「やらない言い訳」には気を付けなきゃな、とつくづく思います。

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