恋愛至上主義がその地位を失うとき

その昔、恋愛結婚というのはある種の抑圧からの解放だったんだろうと思う。

非モテは教育問題である? - E.L.H. Electric Lover Hinagiku

恋愛は万葉の昔からあった。けれども、それは少なくとも当世風な結婚とは関係のないものだったろう。もっといえば、貴族の典雅なお遊びだったようにさえ見える。いずれ、恋愛と結婚と社会性との間にそれほど強固な相関はなかったに違いない。時代はくだって、日本の社会が家だのムラだのに価値をおくようになった頃、婚姻は家同士のものであり、ムラ社会のものになった。個人の意志ではなく、共同体の意志によってシステマティックに処理されるのが結婚というものだった。家やムラ社会の目的は、その安定存続である。結婚はそのためのシステムの一環にすぎなかった。

そうはいっても、長期間共に暮らす相手を選べないというのは、個人レベルでは不幸も生んだだろう。誰もが選びたかったわけでもないだろうけれど、どんな人にも多かれ少なかれ好き嫌いはある。互いに気に入った者同士でさえ一緒になれないというのは、やっぱり当時を生きる人にも不自由なシステムに感じられたはずだ。だから、家やムラ社会から個人へと価値の主体が移行する中で、共同体よりも個人の意思が尊重されるシステムが支持されるようになった。つまり、自由恋愛を経て結婚するという婚姻システムは、大衆に望まれて実現したシステムだったんだろうと思う。

旧来の共同体的結婚観の否定は恋愛結婚の絶対的な肯定に繋がり、その価値観から溢れたマイノリティの存在は否定されるべきものとなった。けれども、自由というのは責任とセットでやってくる。恋愛をするのは自由。恋愛ができないのは自己責任。恋愛結婚以外の結婚が否定される以上、それは即、結婚できないのは自己責任、という意味を持つ。昔よりは個人が尊重される世の中になったとはいえ、完全な個人主義社会が開花したわけではない。社会的人間であることと家庭を持つこととはなかなか切り離されず、今に至っている。家の縛りは形を変えて存在しているのである。

こうした風潮は、社会人としての価値を結婚が担保するという、必ずしも合理的とはいえない社会を生み出した。「いい年をして独身=社会不適応」という社会である。これは無形の抑圧ばかりでなく、現実に出世できないなどのハンデキャップとなって表面化した。つまりこの場合、恋愛ができないことは即生活力の低下に繋がるのである。こうして、合理的な根拠などないはずの「恋愛不能者=社会的価値の低い人」が現実化する。「恋愛」は人生の成功イメージの中に不可欠な要素となった。それはいまや、意識されないレベルまで潜在化し、新たな抑圧として機能しつつある。

そんなわけで、非モテを生む恋愛至上主義的な価値観は、資本主義的な価値観と共闘して、人々の内面に抜き難く根を張っている。既婚者の多くが恋愛結婚であり、恋愛によって精神的充足を感じる人たちがマジョリティである社会そのものが、次世代の子供たちに恋愛至上主義を植え付けるのである。恋愛は素晴らしい、本当に気持ちいいのは愛のあるセックスだ、愛情あふれる家庭を築くことが人生の目的だ…。そうした「幸福のサンプル」が大多数であれば、それが価値あるものだと思って子供は育つ。子供の価値観は学校教育だけではなく、触れるものすべてに育てられる。

学校教育でできるのは精々「マイノリティを否定しない」という道徳教育くらいのものだろう。本当に恋愛至上主義から解放されるためには、恋愛至上主義の外にいる人たちの「幸福のサンプル」が一定以上に増える必要がある。恋愛至上主義から外れた人間の多くが子供らにとって不可視であったり、大多数が不幸に見えるようでは、やっぱりそうはなりたくないと思って育つだろう。そして、自分が非モテとなったとき、なりたくない大人になってしまったと思うことだろう。そうした自己否定意識はマイノリティが否定されない教育の生き届いた社会でも消えないだろうと思う。

現役非モテの中に十分な「幸福のサンプル」が見出されて初めて、価値観は転換する。

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