ミソジニー非モテという弱い敵を発見して叩くという徒労

以下は、書いている人の真意の話ではない。客観的にそう見える、という話だ。

★ 電脳ポトラッチ: 同族嫌悪メソッド~「お前が●●を叩くのは同族嫌悪だろ!」
ホントに強い人間は、他者の服従を必要としねえんじゃねえのかな - NC-15

たぶん、ひとつめのリンク先の人は、本当に腹を立ててミソジニー非モテを叩いているんだろう。確かに、彼らの言い分の多くは酷い。叩き所満載である。いちいち取り上げるのも馬鹿馬鹿しいくらい劣悪、愚劣だ。そして、取り上げる意味も実はあまりない。何故なら彼らは弱いからだ。弱者はしばしばハリネズミ化する。よくある話である。ハリネズミ化した人間の突き出す針は、その人の思想信条なんかではない。理論武装の類と同じで、自分を守るためだけのものだ。そのための拙い武器でしかない。喧嘩の弱い子供が振り回す腕みたいなものだ。計算されたパンチではない。

そんなことは、みんな分かっていて、もしかすると当人たちですら半ば自覚的なのかもしれない。その空気を共有していればそれは馴れ合いだし、戦略的に誰かを怒らせているのならそれは釣りである。どちらでもなければ素で腕を振り回しているだけのことだ。ただ、そんな腕でも当たれば少しは痛い。偶然、急所に入ることもあろう。そんなとき、強者の反撃に遭って潰されるのはたぶん彼らの方である。そして彼らが被害者を気取るのも予定調和以外の何物でもない。だから、彼らにできるアドバイスは、ハリネズミ卒業のスヽメであって、針を一本一本折ることではない。

結局のところ、ひとつ目のリンク先でやっているのは、針をボキボキへし折って、いったいお前ら何がしたいんだ、と詰め寄る行為でしかない。そして、その針の一本一本を見て、「男性のイヤな部分を濃縮還元ジュースにした言説」だという。が、ミソジニー非モテが弄する言説なんて、ただの針なんだから自分の中で咀嚼された言葉ですらない。その多くはネットなやんかで見聞きしたテンプレの援用だろう。だから、その言葉尻をいくら分析反論してみても無駄である。そもそも彼らの言葉じゃないのだから。弱者が強者の理論を見境なく援用して自爆しているだけのことである。

そんなわけで、ぼくはふたつ目のリンク先でいうワナビーも少し違うと思う。まあ、究極的にはマッチョを羨む部分はあるかもしれない。ただし、それは彼らが幸せそうに見えるからであって、別にマッチョそのものになりたいわけではないだろう。ミソジニー非モテはそれほど素直な馬鹿ではない。そもそもミソジニーという態度自体、彼らにとってはたぶん取替え可能な針の一本にすぎない。嫌儲なんかも同じようなものだろう。そんなものをいくら叩いたところで暖簾に腕押しなのは当たり前だ。彼らの屈折っぷりを甘く見てはいけない。彼らの弱さは多彩な針に守られている。

だから、弱い人間に向かって強くなれというふたつ目のリンク先の主張は尤もだ。自分を好きになれない人間に自分を好きになれというのも正論だ。ただし、ただの正論だ。それができないから針を出す。それと、追従や服従と承認は別物だ。間違ってはいけない。ともあれ、この人は「ホントに『強い男』」になったのだという。ぼくたちが知りたいのはその成功譚である。参考にすべきサンプルである。他人の承認がゼロでも自分に承認を与えられるような強い自分になる方法である。ただ「強くなれ!」「自分を好きになれ!」というだけの、シュプレヒコールなんかではない。

まあ、実はただ叩きたいだけなんだというのなら別に止めはしないけれど。

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まったくもって仰る通りだと思います。というか、この言ってみればあたりまえの基本スタンスがなんでみんな取れないのかなあ。

ひとつ言うならば、どういうかたちでか「成功譚」があり得るとか知りたいとかはわたしは思っていませんが。
シンナー嗜癖と一緒で、死ぬほどがんばってやめてもどっちみち歯も脳細胞も戻らないけど、それでも止めないよりは止めたほうがいいよ、みたいな悲しい話だと思います。

> nbさん
まあ、ぼくとしてはぼくの「あたりまえ」の感覚で書くしかなくて、それがどこまで共感を得られるのか、或いは、得られないのか、というのはブログを書く上での関心事のひとつではありますね。
「成功譚」に関しては、まあ、あれです。ぼくとしては先人に習う的な事象として、どこまでこういう個人的且つ主観的体験が有効かという疑問はありながらも、まったく参考にならないかどうかは聞いて見ないとわからんよな、という程度にはオプティミストだったりするわけです。まあ、単に個人的興味という面も少なからずありますが。

「非モテ」を論じる人が非モテ自身の述べるあれこれを一々真に受けて同レベルで殴りあったり、はるか高みから激励したりするのがおよそ無意味であるのと同じように…
当事者にとっても「ひとつ距離をおいて見る」ことが唯一可能な、有効な態度かと思うのですよ。「非モテとしての自分」を。
(言い換えれば)非当事者側は、まず基本的姿勢においてそういうコンセプトを示さなければならない。情緒的に寄り添ったり反発するのでなくて。

ハリネズミの針は疎外をもたらす毒であると同時にそれのお陰で生きてこられた有難い武器なわけですよね。
その害と効能への「自覚」には結局その生き方を追認し護持する作用しかなくて、そこに必要なのはもっと突き放した客観的視点のはずなのだけど、なぜそれが当事者でないという者にすらわからないのか。

「成功譚」がどうでもいいっていうのは、なんというのかな、アル中は酒やめても一生アル中なわけですよ。依存症に完治ということはない。ただ自分の人生とアルコールとの間の意味過剰な絆というか、紡ぎあげたストーリーを脱構築することはできるかもしれない。
それはしかし自己変革とかなんらかの人格的到達みたいなものとは、たぶん違うんですね。そういった文脈です。

どうも説明するほど読みにくくなるだけのようですが…

> nbさん
仰る通り、非当事者が当事者並みの視野狭窄に陥っていては、問題解決に有効な議論にはならないでしょうね。あれはだから、非当事者というよりはアンチな当事者と見るべきなんだと今は思っています。
「成功譚」の件については、何となくわかるような気がします。表現としては不適切かもしれませんが、メタミステリもミステリには違いない…というようなことでしょうか。非モテに限らずこういう負の自意識をあまり拗らせてしまうと、やたら自己言及的になってどんな巨視的な展望もメタ視点に回収されてしまうという無間地獄が待っていたりしますしね。…って、そういうことじゃないですかね。

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