非モテ意識は結婚で解消されるわけではない

そもそも、非モテとジェンダーに相関関係なんてあるんだろうか?

非モテが結婚を望む理由

まず、前提に違った印象を持った。<おまけ>から脱してなりたいもの。それは<男>じゃなくて<一人前の人間>じゃないのかと思う。ここでいう<おまけ>の感覚は、何も障害者だけではなく、いわゆる社会的マイノリティ(だと自分で思っている人)全般に、ある程度共通する感覚なんじゃないかと思うからだ。引き合いに出されている障害者がインタビュアーを性的対象とみなしはじめるのはジェンダーの問題なんかではなく、素直にセックスの問題だと考える方がしっくりくる。この辺り、障害者の性を扱った『セックスボランティア』あたりを読んでみるのも参考になる。

翻って、いわゆる「非モテ」というのは、すでにセックスからもジェンダーからも自由な概念だろうと思う。だから、非モテ意識の解消は、必ずしもセックスやジェンダーと結びつかない。それが非モテ一般の実体ではないかと思う。非モテは単に性の問題ではなく、非コミュあたりともマージナルな概念と化している。リンク先の匿名氏は、その解消装置としてたまたま結婚を想定するようなメンタリティの持ち主だっただけで、非モテ一般に敷衍できる話では全然ない。つまり、非モテの解消が、喪われた男性性や女性性の回復とイクォールな人にしか通用しない議論なのである。

それじゃあ、実際問題として結婚が非モテ意識の解消に繋がらないかといえば、そんなことはないだろうとも思う。何故なら、結婚が齎すものが「ジェンダーの回復」だけなはずはないからだ。というより、ジェンダーの回復だけが目的の結婚というもの自体が想像し難い。結婚を望む動機の多くを何が占めるかは人それぞれだろう。それこそ、ジェンダーの回復が主要目的でも構わない。ただし、パートナーを得るという行為には、普通、多岐に渉る多くのリソースを必要とする。トライ・アンド・エラーの繰り返しでもあろう。そこで結果的に得られるものも多岐に渉るはずだ。

その意味で非モテに対して「結婚しろ」という処方箋はあり得るかもしれない。北方謙三の「ソープへ行け」と同じである。これは、いまだ見ぬ外部との接触によって、内面を変るための処方だ。結婚という事実や、性交という行為自体が、特別な意味を持つわけではない。問題はむしろ、「結婚でもすればおれの屈託も晴れるかも」という考え方が、意識的にプロセスを排除している点だろう。現代的な結婚観は概ね「濃密な人間関係を築く」⇒「相互承認」⇒「結婚」というプロセスを理想としているように思う。前段2つを得るためにまず結婚という発想は、主客が転倒している。

まず結果ではなく、非モテ意識解消に必要なプロセスを想像してみてはどうだろう。

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