本当のことをいうと「告白」は邪道

別に、報われない努力をすることは悪いことではない。

非モテは行動力がないとよくいわれるので

少なくとも「努力しても無駄だから」と努力しないよりは、希望が叶う可能性は高まる。もちろん、希望が叶わないことを受け入れるなら、努力しないという選択肢もある。要するに、自分にとって努力に値する希望なり欲望かどうか、というだけの話だ。リンク先の人には異性と付き合いたいという欲望がある。だから、努力を始めた。極めて妥当な選択だと思う。あきらめるかどうかは、その欲望と努力を天秤にかけて、重い方の声に従って決めていくしかない。欲望が勝るうちは努力し続ける。努力抜きに手に入らないなら、それは支払わざるを得ないコストと割り切るよりないだろう。

そういう前提で話を進める。そして、いきなり要点からいこう。「告白」を「自分の気持ちを伝える」ために使ってはいけない。特定の誰かと付き合う。それは一般に結構なリスクを伴う。それは「他の誰かと付き合う可能性」を相手に預けることだからだ。つまり、「好きです、付き合ってください」という告白は「わたしがあなたを好きだという気持ちを担保に、わたし以外の人と付き合う可能性をわたしに預けてください」という意味を持つ。これはかなり重大な取引の提案である。単に「わたしの好意を伝えただけ」では済まない。告白すること自体が目的ならそれでも構わないけれど。

相手にとって、自分の「好き」という気持ち、或いは、自分が「他の誰かと付き合う可能性」は、どの程度の価値を持っているだろう。本当に相手と付き合いたいと思うなら、そこに思いを馳せる必要がある。それがまったく分からないのに取引を持ちかけるなどナンセンスである。それはLED ZEPPELINファンかどうかも分からないアニメオタクに「ターコイズブルーの1stオリジナルLPあげるから、そのハルヒの非売品等身大フィギュアくれよ」と持ちかけるようなものである。交換してくれる可能性は著しく低い。交換条件というは、相手にとって魅力的でなければ意味がない。当たり前だ。

つまり、当たって砕けろ式の「告白」は砕けるものなのである。相手が大のLED ZEPPELINファンでターコイズを欲しがっていることを知っている。それなら、取引を申し出る価値がある。ハルヒ人形と交換してもらえる可能性はそう低くないだろう。「告白」も同じだ。まずは、それが取引の言葉であることを自覚する。そうすると、有効な「告白」とは「関係性をスタートさせる」のための言葉ではないことが理解できるはずだ。それは「お互いの気持ちを確認し合う」ための言葉なのである。これは決して打算ではない。むしろ、相手の気持ちを無視して重大な取引を迫る方が無体である。

そもそも恋愛関係とは人間関係のひとつの発展形である。そして、人間関係はひと目逢ったときから始まっている。それが恋愛関係に変わるための要件に定型はない。「合コンで知り合った翌日とかに結構付き合ってるカップル」は確かにいる。それは、ルックスやコミュ能力やお互いの好みや価値観の問題で、短時間の内に魅力を伝え合った結果、取引が成立しただけのことである。そういう関係構築がいつでも誰にでも可能なわけではない。自分や相手の性質によっては、時間をかけてお互いの良さを知り合うことが必要なこともあろう。それを飛ばして「告白」するのはただの手抜きである。

結局のところ、成功する「告白」というのは大方デキレースなのである。そして、オサレに代表されるような、「第1印象を良くする努力」だけで勝負できるケースはそう多くない。その後の「相手に自分を魅力的だと思ってもらう努力」の方が大切である。そして、告白する勇気は「あの人もわたしの良さを感じてくれてるかも」という希望が生まれたときにこそ使うべきである。希望なき「告白」などただの蛮勇であり、大切な関係の構築を省略せんとする「告白」など邪道である。そして、自然にお互いの気持ちを確認し合えるなら、本来、改まった「告白」の儀式など不要なはずである。

ただし、努力して手に入れたそれが努力に見合った果実となるかどうかはまた別の問題である。

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