非モテ差別と部落差別の違い、或いは差別の境界

根拠を欠いた属性嫌悪や属性批判は見ていて愚かしいと思う。

いいかげん「ブラクがいてよかったわ!」のおばさんのまねはやめないか、みんな - だんぺんぶこみっく - 断片部

ここでも非モテネタは何度か書いた。差別の意図はないけれど、実は心の奥底では非モテネタを書くことで優越感を感じて気持ち好くなってるんじゃないのか、と責められればそうではないと証明することは難しい。非モテやニートやヲタを取り上げて、あれこれとお節介を焼くこと自体、彼らを下に見ている証拠だという見方もあろう。これはたぶん、乞われてもいない教えを垂れることに対する嫌悪だろうと思う。頼んでもいないのになんでアドバイスなんかされなきゃならんのだ、と。要するに、教えられる側が教える側の優位を認めていない。だから気に障るという構図だ。

はたしてこれは部落差別と同じ構造か。部分的に重なる部分はあるかもしれない。けれども、同列には語りにくいな、とリンク先を読んでいて思った。人間そのものに優劣などない。基本的にはそう思っている。部落差別も人種差別も性差別も、いわれのない差別についてはナンセンスこの上ないと思う。けれども、ある性質だけを取り出して優劣をつけることはできる。数学の才能に優劣をつけるとか、足の速さに優劣をつけるとか、背の高さに優劣をつけるとか、そういう話である。これは別にいけないことではない。いけないのは部分の優劣を人間の優劣のように扱うことだ。

だから、限定的な価値と人間的な優劣を混同しなければ問題ない事例というのはいくらでもあり得る。クラスの生徒を足の速い順にランキングすることや、お金持ちを上位からランキングすることは別に悪いことではない。足の速さという点で、速い生徒は遅い生徒より優れていると認めることは決して不健全なことではない。同じ理由で、異性に人気があるという点で、モテる人間がモテない人間より優れていると認めるのだって不健全なことではないだろう。それを全人格的な評価のようにいうと問題になるだけのことだ。評価の範囲さえ間違わなければいわれのある優劣である。

ニート、ヲタ、非モテみたいなものは大雑把な属性だ。みんな同じなわけではない。類型化は取りこぼしもあるけれど、議論の内容によっては有効だろう。特徴的に優れている点や劣っている点を見い出してあれこれいうことは差別だろうか。非コミュってコミュニケーションの点で劣ってるよねというのは、数学100点満点中3点って数学の実力の点で劣ってるよねというのと同じだろう。もちろん、それらに優れることは人として必須ではない。ただ、肌の色が黒いって肌の色の点で劣ってるよねとか、部落の人って生まれの点で劣ってるよねとかいうのとは全然違うだろうと思う。

そして、数学3点の人にこうすればもっと数学を理解できるんじゃないかなとアドバイスすることは、少なくともぼくは差別だと思わない。責められるべきは「数学3点って努力が足りないんじゃね?」とか「数学3点なんて人としてやばくね?」とかいう根拠のない決め付けだろう。「おれは数学なんて解かりたくないんだよ、頼まれもしないのに教てんじゃねえ!」という意見もあろう。けれども、そうなるとそもそもWebの魅力のひとつである集合知という考え自体が成り立たなくなる。集合知というのは所詮頼まれもしないのに披瀝された余計なお世話の集積だからである。

差別は愚かしい。けれども、差別の適応範囲を無闇に広げるのも愚かしいとぼくは思う。

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それにしてもわざわざ綿密に引用しているゴー宣/差別論SPが、
「反論しないから、たのむからやめて」などという懦弱な相互不干渉主義の肩を持つどころか、
「戦う魂こそが輝くのだ!」というパワフルなアジテーションの書であるのは皮肉なもんですね。

> nbさん
リンク先の人に限らず、ゴー宣に限らず、援用というのは結構援用される側が持つ性質を無視して、恣意的にされるもののような気がします。だから、間違いではないにしても、仰るような「皮肉な」状況になることはままあるんじゃないでしょうか。まあ、はてな界隈でゴー宣並みのアジテーションをやったら訊いてもらうどころか、最初の3行で叩かれそうだから戦略的にやらないという選択もあるかもしれません。好意的なブックマークコメントなど見ていると、これがもし戦略だとしたら成功しているといえそうですね。

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