体外受精も代理母も大いなる自然の掌の上にある

人間というのは、いかにも高慢な生き物である。

本物のクズっているんだね

ぼくはたぶん、匿名氏の主張とは少し離れた地点にいる。だから、「通常の命の営みに反してまで子供を作る技術」という件の批判には、怒りよりも困惑が先に立つ。それは、ぼくが日頃から感じている「人工」という言葉に対する違和感にも通じている。一般に、「人工」の反対語は「天然」である。決して「自然」ではない。この場合の「天然」と「自然」とは、きっちり分けて考えるべきだろうと思う。念のために書いておくと、「人工」は「人の手が加えられたもの」であり、「天然」は「人の手が加えられていないもの」である。ここまでは、いい。問題は「自然」である。

結論からいえば、ぼくはこの世には「本当に自然でないもの」は存在できないと思っている。というより、そういう風に言葉を定義し世界を捉えている。だから、この世に存在するものはすべて自然ということになる。つまり、新宿の高層ビル群は「天然」ではないけれど「自然」の一部には違いない。これは単に、人間を自然の一部と考えるか自然と対立する存在と考えるかという問題である。少なくともぼくは、人間だけが自然の摂理から離れて生きられるなどとは思わない。蜂がその技術をもって蜂の巣を作るのが自然なら、人間がその技術をもってビルを作るのも自然である。

ところが、自然という言葉も「人為を介さない」というニュアンスで使われることが少なくない。冒頭に引用した「通常の命の営み」にもその匂いはある。つまり、体外受精は不自然だ、という否定的な印象である。そこに垣間見えるのは、「人為」より「自然」が素晴らしいという価値観である。けれども、ここには大きな欺瞞がある。人間の営みはすべて「人為」である。この世から「人為」を消すためには人間が滅びるしかない。木彫りの器は「自然」で合成樹脂製の器は「不自然」なんて理屈はない。性交で子を成すのは「自然」で体外受精は「不自然」だなんてのも同じだ。

自分が自然に受け入れてきた「人為」は「通常の命の営み」と認め、受け入れられない「人為」は「通常の命の営みに反する」といって非難する。その線引きに根拠はない。生まれた子供の幸せを考えれば云々…といった尤もらしい批判もあるようだけれど、大抵は彼らの「通常の命の営みに反する」という偏見が、生まれてきた子供やその親たちを不幸にするだけのことだろう。レイプ魔が「レイプされたくないなら夜道を独りで歩くべきじゃない」なんて、訳知り顔で夜歩きを非難するようなものだ。酷く性質の悪い自作自演である。犯人はお前だ!と非難されても仕方がない。

或いは、悪用される可能性があるからダメだという議論も、すべての技術に適応されるという意味で説得力を持たない。悪用されないよう努力すべきである。もちろん、多くの人が体外受精や代理母を嫌うことで、そうした技術による子供が存在できない世界になるなら、それもまた「自然の摂理」だろう。けれども、ぼくは「人為」を含まない「自然」という概念を信じる気にはなれない。何故なら、人間は自然の一部としてよりよく生きるためにこそ「人為」をふるってきたはずだからである。そして体外受精も代理母も誰かがよりよく生きるために必要とした「人為」のはずだ。

体外受精や代理母に反対するなら、ただ素直に「私は厭だから反対だ」といえばいい。

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