「表現の自由」をどんどん振りかざして愉しく生きよう

果たして、正しい「表現の規制」は可能か?

表現の自由は、何を差し置いてでも守られなければならないものなのか、という件について - 想いは文字に
凌辱ゲームも普通のエロゲーもエロマンガも軍事も不謹慎で差別的です - 革命的非モテ同盟
Gazing at the Celestial Blue 「表現の自由」は誰のものですか?

無理だ。表現に限らず「自由」というのは大抵、共存が難しい。誰かの自由が別の誰かの自由と衝突する。そこに問題が起きる。ひとつめのリンク先の「市民の利益」も同じだ。酷いポルノ表現が侵す「市民の利益」があるように、酷いポルノ表現が生む「市民の利益」もある。表現の自由によって「おばかさん?」などと書かれてしまったfurukatsu氏もまた守られるべき「市民」である。そして、furukatsu氏の求める「市民の利益」は、juri-yamaguti氏の主張する「市民の利益」と衝突してしまった。furukatsu氏など市民ではないし守られる価値もない。そんな態度は不遜である。

こうした「相反する利益の衝突」を権力によって調整するのが「規制」だろう。これは権力がどちらかの利益に肩入れすることを意味する。その判断は「恣意的」にしかなし得ない。たとえば、furukatsu氏の利益を守ることで世界中の女性が生き辛い世の中になるくらいならfurukatsu氏の利益なんて取り上げてしまえ、というような判断をする。問題はどんな表現がどれだけの人に対してどの程度の(有形無形の)利益を生み、他方でどれだけの人の利益を侵害しているかを本当に知ることは誰にもできないということである。だから、権力の介入は限りなく慎重でなければならない。

つまり、3つめのリンク先のタイトルの問い、「『表現の自由』は誰のものですか?」に対する答えは、「表現を制限されることで不利益を被るすべての人間」だ。決してある集団の「全体利益」のためにあるわけではない。あくまで個人のためのものでしかあり得ない。否、そうあるべきだ。だから、対立するのは常に個人対個人である。furukatsu氏対女性一般なんかではない。juri-yamaguti氏はポルノで不利益を被るかもしれない人たちの代表ではないし、当然、furukatsu氏はポルノで利益を得る人たちの代表ではない。それぞれがそれぞれの自由を主張しているだけのことだ。

それを権力によって「規制」するということは「集団の利益」という名の多数決、或いは、「声の大きな人の利益」という恣意を受け入れることを意味する。そうした権力によって不利益を被ってきた(と考えているだろう)はずの人たちが、自分たちの不利益を回復するために「規制」を叫ぶのはあまり理性的な態度とはいえない。それは旧来の権力闘争を温存するばかりの愚策である。ポルノを差別的だと捉え、自分の敵であると考える人こそポルノ表現の無制限の自由を主張すべきである。性差別的表現に限らずあらゆる差別表現すべてを、だ。一切の権力を否定するのである。

そして、「表現の自由」をもって自らの利益を犯そうとする表現を攻撃する。言論を糾合し、叩き、罵り、差別し、自らの不利益を、守るべき利益を声高に主張する。見える化が進んだ今なら、敵も味方も見えやすい。凌辱ポルノ愛好者を徹底的に嫌悪し差別する論陣を張ればいい。不快なものは不快だと、furukatsu氏などとんだ変態であり、世に溢れるラブ・ストーリーは女性差別でありレイプの物語なのだと堂々と主張すればいい。同胞が犯される物語を喜んで見るような女性をその洗脳から解き放つために「表現の自由」を行使すべきである。洗脳する側がそうしてきたように。

多くの男性が自分の性向に疑問を持ち「自分は間違っていたのだ」と思うような表現を徹底するのも自由、「誤った」性の常識を糾弾し自分の思う「正しい」性の常識を開陳するのも自由、自らの差別的変態性を表現し罵倒されるのも自由である。啓蒙され糾弾された変態は変態をやめようと思うかもしれないし、もっと罵ってくれと歓喜するかもしれない。或いは、そんな考え方を持つお前こそが変態なのだと反論してくるかもしれない。そんなことは誰にもコントロールできないし、すべきでもない。誰もが自由に表現し合えばいいのである。正しいのは決して自分だけではない。

自由に表現し、決して、自分の意見が何かの代表だなどと思いあがらないことである。

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