効果的な「社会的制裁」としてのセクハラ告発

痛がっている人がいたらまずは善処せよ、とは真っ当な意見だと思う。

個人的痛みとしての「セクハラ被害」と社会的問題としての「セクハラ論」 - 玄倉川の岸辺

騒動の発端となったBritty氏のブログでこの問題は収束宣言がなされている。ぼくがこれから書こうとしているのは「外野の一般論」である。一般論に意味はない、或いは、興味がないという向きにはまったくツマラナイ話であることを予め断わっておく。むしろ、セクハラ被害者には不快な話題かもしれない。というのも、「性的いやがらせ」や「セクハラ」という言葉には、「痛いから足を踏まないで!」という叫び以上の社会的効果、はっきりいえば「社会的制裁」の意味があると、ぼくは考えるからだ。ただし、自覚的にその効果を利用することの是非はここでは問わない。

たとえば、宴席で卑猥な冗談をいわれ不快に感じた人がいる。これが上下関係や社会関係の縛りによって「そういう冗談は不愉快です、やめてください」といえない。これが典型的なセクハラ問題だと思う。悪質なハラスメントとは、こうした縛りを自覚的に利用したいやがらせのことだろう。一方で、被害者の被害意識が生むハラスメント問題というのもある。これは、性的な発言にルーズな感性の人、敏感な人といった感受性の個人差によって生まれる。当然、縛り問題によってハラスメント化する。ただこのケースは、縛りのない関係であれば話し合いの余地があるとも思える。

同僚たちと仕事で使ったグラビアアイドルのポスターを見て、思わず「おお、この谷間ハンパねぇな」と叫んだとして、それは確かに仕事上必要な発言ではないし、相応しい発言でもないと思う。そして、これくらいなんとも思わないという人もいれば、非常に不愉快だという人もいるだろう。ぼくはこの谷間発言を無条件に認めよというつもりはない。心底止めて欲しいと思う人がいるなら謝って止めるべきだと思う。だから、厭な気持ちになった人は「そういうの嫌いだからやめてくれ」と、心おきなくいえる社会が望ましいとも思う。それが難しいこともひとつの問題だろう。

ただ、話し合いの余地がありそうなケースでも、話し合いに持ち込むか否かは当然「被害者」に選択権がある。つまり、当人に「そういう冗談は不愉快です、やめてください」と気持ちを伝えることもできるけれど、いきなり衆目の集まる中で「あなたの行為は性的いやがらせです、やめてください」と告発することもできる。もちろん、前者より後者の方が効果的だろうとは思う。だから、戦術として後者を選ぶことを「被害者」でないぼくが批難することはできない。ただ、後者が効果的なのは「社会的制裁」の意味を含むからだ。それはすでに個人的な叫びとはいえないと思う。

さらに付け加えるなら、「社員Aさんは仕事中にセクハラ発言をしました」という情報が流布することと「社員Aさんは仕事中に『おお、この谷間ハンパねぇな』と発言しました」という情報が流布することは全然別のことである。後者であればそれを見聞きした人が、その重大さを各自評価することもできる。けれども前者はそうした評価の機会を奪い、「セクハラ発言者」という「被害者による評価」を「社会的評価」として流布させることにもなりかねない。そして、性的な問題における社会的評価が個人に与えるダメージは大きい。これは痴漢冤罪なんかにも通じる問題だろう。

つまり「個人的痛みとしての『セクハラ被害』」の告発はすでに社会的問題なのである。


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