「平等」の実現には「絶対的な差別」が必要である

完璧な平等、そんなあり得ないものを希求するのも悪くはない。

およそ理想などとというものは、叶わないくらいに高くあるべきだと思う。理想的でない現実をただ否定し続ける。それもひとつの生き甲斐だろう。けれども、理想を語るだけでなく、少しでも何かを為そうとするなら話は別である。暫定的な妥協を考えざるを得なくなる。それは、平等についても同じである。完全な平等を実現する方法はたぶんひとつしかない。それは「平等」という概念を持った生き物を根絶すること、要するに、人間をひとり残らず殺すことである。死後の世界を信じないぼくの感覚では、これでキレイに平等が実現する。それ以外の方法は思い浮かばない。

ある双子の母親がケーキを買って家に帰る。すると、双子が各々の部屋に友だちを連れてきている。母親は双子と自分で「平等に」ケーキを分けた。母親は家族と他所の子を何の疑問もなく「区別」したのである。これは差別だろうか。ちなみに「せめて友だちが帰ってから与えろ」というような意見は「自分の家族だけで分けること」自体は正当だという意見にカウントする。この母親の行為は家族にとってのみ平等な「限定的な平等」である。その平等は、他人の子をないものとすることで成り立っている。そして現実に運用される平等はすべてこうした「限定的な平等」である。

ところで、母親がケーキを手に入れられたのは、100%彼女だけの手柄ではあり得ない。配偶者の稼ぎのお陰かもしれないし、運良くパートの仕事にありつけたお陰かもしれない。パートで働いてお金を稼げることが100%本人だけのお陰でないことはいうまでもない。つまり、当人にはどうにもならない多くの偶然に支えられて、母親はそのケーキを手にいれたことになる。そのように考えるなら、手に入れたケーキを自由にする権利が母親にだけあると決めつけるのは難しい。ならば、その子にだけケーキを食べる権利があり、他所の子にはないという考え方も当然ではない。

母親を日本政府に、ケーキを税金に、双子を納税者に、他所の子を非納税者に置き換えてみる。税金を使って平等に「納税者だけ」の暮らしを恙無く運営する。これも「限定的な平等」である。これは一見合理的に見えるけれど、納税者というのは多くの人の多様な営みに支えられて運良く納税者たり得ているにすぎない。その意味で「納税者だから当然税金の恩恵を受けてしかるべき」という考え方は、必ずしも理に適っているわけではない。では、非納税者も含めて全日本国民に平等なサービスを提供するというのはどうか。これも日本国民以外が他所の子になるだけの話である。

日本政府が日本の路上生活者を救わない説得的な理由がないように、国外に掃いて捨てるほどいる難民やスラム民を救わない説得的な理由もない。路上生活者を救わないことを差別というなら、世界人口の1/5ともいわれる貧困に喘ぐ人々を救わないのも差別である。それは「他所の子」をどこまでだと考えるかの差にすぎない。翻って、世界中の貧困を日本の税金でなくすことはできないのだから仕方がないというなら、日本中の貧困を税金で賄うのが難しいのならそれも仕方がないということになる。かように、平等を実際に運用しようと思えば「他所の子」は必ずどこかに現れる。

果たして、他所の子の存在を忘れることで「絶対的な差別」は完成し「平等」は成る。

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