3万人3万様の自殺について語れるなら語ってみればいい

間違ってはいけない。川田アナの自殺は川田アナ個人の自殺問題でしかない。

自殺を無くそうなんて考える前に少しは病気のこと理解してあげてください - 狐の王国

ここに書かれているのは死にたくなる病気の話であって、自殺一般の話ではない。それが、なにやら自殺一般の話に見えるのは、「自殺で一番多いのは健康問題なんだそうだけども、不健康は経済的問題も産むし無理解な人間からの無意味なプレッシャーで鬱病をいわば合併症的に発症してしまう人も少なくないんじゃないかな。」という一文で、どんな原因があるにしろ最終的に死を選ぶのは鬱になるから、という印象を与えるせいだろう。そして、論点を鬱に代表される病気に収斂する。自殺の話をしているようで、鬱病への無理解を糾弾するのが目的なのである。

危ないなぁと思うのは、こうした話が「自殺の話」だと思われがちな点だ。書いた当人は自殺は単なる話の枕で、鬱が本旨だと自覚しているかもしれない。その場合は、タイムリーだから自殺問題を引用しただけなんだろう。けれども、これを読んで自殺問題を考えたつもりになる人は少なくないと思う。その意味では、定期的に繰り返される自殺報道も同様の危険を孕んでいる。自殺流行りの気分は大方マスコミが作っている。そして、似たようなケースと解釈される自殺が集中して報道される。練炭自殺みたいな意義不明確な報道が連日マスを賑わせたりもする。

死というのはショッキングな題材だから、何かを主張するのに利用されやすいんじゃないかと思う。先のエントリーは鬱が主題だし、練炭のあれはもしかするとネット批判が本旨だったのかもしれない。自殺者数の統計の年齢別欄を見ると、自殺者は高齢になるほど多いことが分かる。原因別、動機別でいえば圧倒的に「経済・生活問題」と「健康問題」が多数だ。もちろん、レトリックを駆使すれば、多様な自殺の実体をある傾向に収斂することは可能だろう。「生活苦⇒鬱⇒周囲の無理解⇒自殺」というストーリーはスタートの原因を何に入れ替えても成り立つ。

だから、自殺問題は鬱問題だ、ということに意味はあるだろうか。これは問題を矮小化するだけの行為じゃないだろうか。鬱病というのはある状態に名前をつけただけのものだ。自殺の原因は鬱、というのは、死の原因は心停止、というのと同じくらい無意味なものだと思う。心停止の原因が様々である以上に、鬱の原因は様々だろう。それくらいは専門家じゃなくても想像がつく。たとえ原因が似通っていても、(薬の処方は別として)有効な対処法は人それぞれだろう。だから、誰かの自殺は他の誰かの自殺の参考にはなり得ない。不用意な予断は有害ですらある。

自殺問題はあくまで個人の問題であって、決して社会問題なんかではないのである。

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comment - コメント

社会問題でないとおっしゃるなら、何故、毎年、ほぼきっかり3万人という、不気味なほどばらつきの無い人々が自殺しているのでしょうか。最近では、「3万人」と聞くだけで、「ああ、毎年の自殺者数のことだな」と予測できるほどですよね。現に、あなたも記事のタイトルとして、この数字を使っています。

個人的な側面があることには同意しますが、構造的な理由がなければ、「3万人」という数字が、自殺の代名詞のようになったりしません。

>通りすがりさん
ご意見ありがとうございます。
そうですね、社会的な問題が自殺の背後にあることは事実だと思います。ただ、ぼくがエントリーにあるような表現をあえてしたのは、自殺問題というよりは、様々な社会問題が個別的に自殺に繋がっていると考えるのが本筋だと思ったからです。
たとえば、経済的な問題で人が死ぬのは、経済面でのセイフティネットの充実といったあたりが社会問題なのであって、自殺はその不十分さの現れの一端に過ぎないのではないかと思うのです。貧困問題は、自殺以外にも殺人や家庭不和など様々な不幸を生んでいるでしょう。同じように、障害者が将来を悲観して自殺するのは福祉あたりの問題だったり、若年層の自殺は家庭教育や地域教育を含む教育の問題だったりするのではないかというのが今のぼくの印象なのです。
そうした種種雑多な社会問題を現象としての自殺に収斂して考えるのはすこし無理があるし、建設的ではないのではないかという考えからこのようなエントリーになったわけです。もちろん、さまざまな考え方があるでしょうし、自殺問題をひとつの社会問題ととらえることで何か有効な議論ができるなら、それはそれで有意義なことだと思います。

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