AB型の市場価値が高まったときAB型を優遇するのは差別か?

ぼくは「AB型だ」とか「ひとりっ子だ」とかいうと、たいてい「やっぱり」といわれる。

404 Blog Not Found:本当は怖い血液型性格判断

実は、AB型ではない。というようなオチではない。そんな厭味をやるほど、カテゴライズ好きの無邪気な人を、ぼくは存外、嫌いではない。第一、彼らもさほど本気ではなかろう。ぼくは正真正銘のひとりっ子でAB型だ。ただ「やっぱり」という台詞にはあまり好意的じゃないニュアンスがあるな、とは思う。ひとりっ子は「自己中心的」とか「人見知り」とか「甘ったれ」とかいうような印象を含むんだろうし、AB型は「表裏がある」とか「何を考えているかわからない」とか「変人」だとかいうような印象を含むんだろう。ぼくがそう見えることについて強く否定するつもりはない。

まあ、さすがに最近はそんな会話になること自体稀だし、そうそう自分の素を見せるような付き合いもしない。たまに「ぽいよね」とかいわれることがあっても、「うん、よくいわれる」くらいの応答で終わってしまう。人はときによって自己中心的になったり、人付き合いを厭ったり、心弱くなったり、キャラや態度を切り替えたりするものだろうし、一般に「わかりやすい」と思われている人だって内実はどうだか怪しいものだし、大抵の人はそれなりに変人でそれなりに真っ当なものだろう。当然マトモなだけの人はいないし、本当に逸脱している人なんてのもそうそういない。

こうした属性で人を区別することは、まあ、差別といえば差別だろう。それは何も血液型による性格診断が根拠薄弱だからではない。例え統計的に血液型による性質の違いが有意だったとしてもやっぱり差別だろうとぼくは思う。この辺りは意見の分かれるところだろうか。とりあえず、何を考えているかわからないAB型は就職に不利だとかいう世の中だったら当事者のぼくとしては面白くない。ひとりっ子なことやAB型であることを自分の意思で変えることは困難だ。たとえ血液型によって某かの能力に差がつくのだとしても、その原因を取り除くことはぼくにはできないのだから。

けれども、こうした意味での差別はすでに氾濫していてなくすことは難しい。たとえば、学習能力みたいなものにも努力ではいかんともしがたい個人差はある。そして、確実にその人の生涯を左右する。血液型で就職差別を受けることはなくても、学力で選別されることは当たり前にある。不当だと思われてもいない。人間の能力は、たぶん、平等ではない。後天的な時代への適応能力が、果たして生まれつきの能力差や育成環境などの「運」をどの程度克服するかなんてわかったものではない。にもかかわらず、血液型で選ぶのはダメで学力で選ぶのは妥当だとする理由は何だろう。

血液型と違って、能力差というのは生産性に結びつきやすい。つまり、「AB型の人」よりも「すごいWebサービスをたくさん作れる人」の方が市場価値がある。だから、市場価値で選別することは差別じゃないという理屈なのかもしれない。それなら、もしも雇用側が市場価値があると判断した場合は、血液型や家柄や性別や国籍で選ぶことも認めるべきなんじゃないかと思う。或いは、「努力でどうにかなるか否か」の「程度」が差別か否かを決めるポイントなんだろうか。確かに、血液型よりはプロブラミング技術の方が努力でなんとかなる可能性は高い。その意味で努力は大切だ。

なるほど、努力せずに腐るのは個人の勝手かもしれない。欲しいものが努力して手に入るものなら手に入れるべきだろう。努力もせず手に入らないと拗ねるのは馬鹿げている。けれども、そもそも欲しいと思わなければ、努力をしようとも思わないのが普通だろう。ギークが高度なプログラミング技術を習得したのは本人の努力の成果かもしれない。けれども、今の時代にプログラムにハマったことは果たして本人の手柄なんだろうか。逆に、実用的な何にもハマれないのは自己責任なんだろうか。人は何によって努力に向かって動機づけられるんだろう。正直いってよく分からない。

いずれ、不当な差別と正当な区別の違いなんて、極めて恣意的なものだとしか思えない。

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