車内でのケータイ通話がダメな合理的理由はない…けれど

そもそも禁止されることに合理的な理由があると思うのは間違いだ。

車内で携帯電話を使って通話をしてはいけない理由がわからなくなってきた - 頭ん中

まず、バスの乗務員がケータイ通話者を注意することについては、ぼくは合理的な理由があると思っている。ただし、それは善悪の問題ではない。バスにエアコンがついているのと理由は同じである。交通機関という以上、人間の輸送が彼らの商売である。ただ運べば良いなら快適なシートも快適なエアコンも不要だ。それをつけるのは、サービス業というのは客を大切にすることで支持される仕事だからだ。だから、交通機関は顧客満足度をあげるべく利便性や快適性の向上を目指す。客がケータイ通話を不快に思うなら、排除に努めるのは合理的な判断だろう。

もちろん、すべての乗務員がそうした合理性を理解してケータイ禁止を呼びかけているとは限らない。決められたことだから注意しているだけだという人もいるだろうし、自分自身が嫌いだからことさら神経質に注意しているなんて人もいるだろう。ルール化して運用するというのはそういうことだ。だから、乗客が自分ひとりなのに注意された、なんてこともたぶんあり得る。ペースメーカーへの影響云々の話にしても、多くの乗務員がその実情をよく勉強しているとは思えない。たとえ知っていたとしても、マジメな人間ほど杓子定規に注意して回るだろう。

つまり、ケータイ禁止に合理的理由があるかどうかと、公共の交通機関でケータイを禁止することとの間に、特に本質的な関わりはないのである。民主主義的な社会のルールはそれを必要とする集団の総意で決まる。ケータイ普及期に相手の見えない会話を聞かされることに不快を感じた人は多かったろう。ペースメーカー云々が喧伝されたことも、アンチケータイ派に勢いをつけたかもしれない。ケータイ禁止の経緯なんてそんなものだろうと思う。いい替えれば、すべてのルールは恣意的なのである。定着することで正当性という幻想が生まれるだけのことだ。

これはバスや電車のローカルルールだけに限った話ではない。刑法だの民法だのといった法律一般にもいえることだ。あちこちでいわれていることだけれど「人を殺してはいけない合理的な理由」は、たぶんない。あるというなら、その理由で周囲の人間をあまねく納得させられるかどうか試してみるといい。ダメならそれは個人的な思い込みにすぎない。それこそ「ダメだからダメ」を超えるものではない。けれども、殺すのも殺されるものできることなら御免被りたいという人は多いだろう。だから法律になった。こうしてみんなが嫌がるものは禁止されるのである。

ルールが恣意的に決められることはときに不自由を生むけれど、必ずしも悪いことではない。

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